食育とはなんだ「私的食育論」なのだの最近のブログ記事

 さてなんども書いているが「食育」とか「スローフード」とか言う言葉には強い嫌悪感を感じる。ただし商売として使うのは大賛成であるから誤解しないでもらいたい。こんな言葉が必要な人と言うのは食に対しての感受性が低いのだと思う。ボクは食うことも好きだが食を巡る総てのことに惹かれる。それは明らかに太陽系の大きさではなく銀河系に勝るとも劣らない。こんな広大無辺な世界を誰が教育するのだ愚か者。
 国は「食育」を法律化してしまったようだ。これは例えば国家資格で「食育師」とか「食のソムリエ」だとか「マイスター」とでも言うような吐き気のするような名称をつけたりするんだろうか? いやだいやだ大嫌いなのだ。昔池袋の百貨店だったろうか日本酒のプロのような人物の写真が貼ってあって、そいつが選んだ日本酒を「特別なもの」、「選ばれた日本酒」とでも言うがごとく売っていた。そして愚かにもソヤツの顔写真がそこここに貼ってあるのだ。言わしてもらえば食の世界に無駄で愚かな自己顕示は必要ない。ようするにうまけりゃいいのだ。
 先週だっただろか「毎日新聞」に「食育」のプロのような怪しい大ばか野郎が出ていて小学生に料理の楽しさを教えているのが出ていた。まったくなんというわけのわからんことやっているのだと一つ目国に入り込んだような不思議な思いに沈み込んだ。あきらかに無味乾燥なつまらないことだ、これは。子供で食に惹かれるヤツならすでに何らかの形で「食う」ことに微量だが執念のようなものを芽生えさせている。そんなときにアイデア料理なんて持ってきてどうするの。
 とここまで好き勝手、思ったことを書いてきて「何がいいたいか」というとボクなりの「食育論」を少しずつ挙げていくのだ。

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 さて、先日、亀戸駅周辺を歩いていた。そこにうまそうなお総菜屋さんがある。ボクはこのような店が大好きなので何も買わなくてもすーっと引き込まれていく。すると店にはオジサンとオバサン。そしてお客のお婆さん。そのお婆さんが今日の夕食を何にするか、かなり迷っているらしい。
 オジサンが、
「あのさ、お婆ちゃん、お魚きらいでしょ。だからお弁当にすれば」
「………」
 こんどはオバサン。
「決められないのよ」
 全然何を買うか決められないお婆さんにオジサンとオバサンが気長に対応している。前にはたくさんの小学生が通り過ぎる。ボクはこの小学生にときどき、こんなお総菜屋で買い物してもらいたい。ここで買い物をすることが「食育」だと思うのである。子供は「お婆さんも魚が嫌いなんだ」とか「今日はハンバーグにしようか」とか、「これはジャガイモかな」とか、あれこれ考える。すなわち「忙しいお父さん、お母さんがもし夕食が作れなかったら、それはそれでいい。このように会話が存在する店にお使いにやらせろ」すると学校で教える宇宙距離倍の意味合いがある。
「こまったね。お婆ちゃん急がなくていいからゆっくりね。お客さんは何にする」
「ハンバーグうまそうだなな。これ3つ」
「それなら、こっちのパック入りにしとく、30円安いからね」
 オジサンはハンバーグにたっぷりナポリタンのオマケを入れて
「はい450円ね。ナポリタンはつけ合わで食べてね。おいしいよ」
 こんな一時を子供や今時の若者にあげたい。それが「ボクの食育」である。でも、この個人商店がどんどんなくなっていく。もし本当に「食育」が大切ならできるだけ商店街を利用して親が積極的に会話をしながら買い物をすべし。そしてこの「個人商店」を守るのだ。

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