2006年9月アーカイブ

 雨の中、富士吉田駅の近くで山宿りするように飛び込んだのが「研考練」である。駅から本通りに向かう坂道は駐車場や公園はあるものの商店はなく、そこに忽然と仕舞た屋風の建物、暖簾がかかって初めて「うどん屋」であることがわかる。あまりに変わった店名に一瞬足が止まったが、店の構えはいたってありふれた田舎の食堂なのである。入ると左手に小上がり、テーブル席があり、入り口の横が厨房になっている。
 店内の雰囲気はあくまで食堂、どこにも観光的なものはない。わざわざ富士吉田に来て入るような店とは思えないのであるが、品書きをみてとりあえず、「肉うどん」400円に決める。あとあと調べてみるとここには「揚げ出しうどん」という名物があったようなのだが、そんな特別な書き方はされていなかった。これは残念。
 そして出てきたのがまことにボク好みの懐かしいうどんなのである。汁はカツオ節だろうか、やや甘口ながらしっかりとした塩辛さを感じる。うどんの上には牛肉とお麩と青ネギ。青ネギは明らかに九条ネギではなくわけぎである。考えてみると富士吉田のネギは白ネギなのだろうか、わけぎなのだろうか? そして、麺はやや平たく、腰がある。
 なかなか汁がうまくて「いっぱいのうどん」としていい味わいである。例えば関西や四国のうどんだと油揚げや竹輪が具材となるのが、ここでは乾燥麩なのも面白い。
 あっという間に食べ終わったときに、窓の外から激しい雨の音が聞こえてきた。店のオバサンが洗濯物を取り込みに走る。そして、どうしても傘を手に入れなくては身動きが出来ないので「コンビニは近くにありますか」と聞くとないという。そんな話のついでに「うどんを食べに来た」ともらした。すると先客で来ていたオバサン達が「吉田のうどんはキャベツがいっぱいはいっとるね」と言う。するとここのは典型的なものではない?

 それで「キャベツを具に使う」ということで市役所の「農林課」、「歴史民俗博物館」に電話で問い合わせた。お話を聞いた堀内さんによると、高原抑制栽培のキャベツをこの地域で作り始めたのは新しく、うどんの具にキャベツというのも古いものではないのではないか。古くは青菜などを利用していたらしい。またうどんも外食での一品ではなく月江寺周辺での機産業の合間に自家製に作っていたのが始まりであるようだ。

 外は大雨である。「研考練」のオバサンに傘をお借りした。「よかったら持っていっていいよ」と言われて外に出る。店先まで送り出してくれて「晴れてたら富士山が見えたのに」と黒雲の果てを見る。結局雨は止みもせず、傘を頂いてきてしまった。オバサンありがとう。

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研考練 山梨県富士吉田市上吉田2-6-21
●詳しくは富士吉田市の「吉田うどん」へ
http://www.city.fujiyoshida.yamanashi.jp/forms/info/info.aspx?info_id=362

 意外に知られていないのでは? と思うのが富士山麓斜面にある富士吉田市がうどんの町だと言うこと。小さな町であるにも関わらず60以上のうどん屋が密集する。八王子は山梨との縁が深く、市場にも山梨から仕入れにくる。そして山梨出身者も多いので「富士吉田」=「吉田(の)うどん」というのをなんども聞いている。
 でもその「吉田うどん」がいったいどんなものかは皆目見当がつかないのだ。どうも市場関係者といっても「食」に感心があるとは限らず、実際に富士吉田で食べ歩いたという人は皆無。せいぜい「配達のついでに食堂で食べた」とか「近所のうどん屋にはよくいく」という程度である。ある人は「吉田うどん」は「つけめん」だと言い、ある人は「肉の入ったうどん」だといい。それで実際に富士吉田を歩き、また市役所などに問い合わせて調べたら以下の2点が「吉田うどん」の特徴であることが判明した。
 まず具は「たっぷりの茹でた(生?)キャベツ」、「肉(牛か牛か馬)」、そして温かいかけうどんというのが基本らしい。また富士吉田では馬肉を売る店が目に付く。すなわち「馬肉」=「肉」というのが富士吉田の古くからの形であるようだ。考えてみると肉食の普及が進んだ明治期に、まだまだ牛の供給は少なく、日露戦争などで需要が高まり高騰したときにはしばしば廉価な馬肉が「牛肉」として売られたことがあったという。それだけ馬肉は安く、身近なものであったのだ。これなど今のように馬肉の値段があがってしまった時代には想像がつかない。
 また富士吉田で目に付くものそれは「甲州名物馬刺」の幟、「馬肉」の貼り紙のある、カンバンのある肉屋。長い坂道を休み休み上っていく老夫婦に「馬肉を売っている店が多いんですね」と聞くと「昔は牛より安いんでよく食べました。今は高くなったけど、まあうまくもなりましたね」、「お土産に買っていてみなさい」と教わった。
 さて、実際に富士吉田を歩くに、富士吉田駅周辺から無駄歩きを始めたのは最大の失敗であった。市街地は富士吉田駅周辺「上吉田」と、富士山の斜面をまるで滑り台のような本通りを下って富士急行月江寺周辺からなる「下吉田」に分かれている。この上吉田は富士講、御師の家が点在し歴史的には見るべきところはあるかも知れないが織物で栄えた町の中心は下吉田なのであり、「うどん屋」「食堂」「魚屋」「和菓子屋」、そして時計店、洋品店、雑貨屋など人の暮らしの垣間見える家並みは下吉田にあったのだ。そしてたぶん織物業で需要が高まったであろう外食の古くからの店も下吉田に多いに違いない。
 クルマを富士吉田駅の駐車場にとめて青い稲妻号を組み立てる。そして本通りに下ると突然大粒の雨が落ちてきた。無駄歩きの幸先悪し。

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富士吉田駅から本通りを上っていく。左手に御師の家

 まず最初にお断り。「ふりかけ」というものが水産加工品なのか、それともインスタントなもしくは手軽なB級食品なのか少々迷ってしまった。それで「ふりかけ」のは高菜漬けや卵なども使われること、また「お茶漬け」との共通点が多い点、また瓶詰め、袋入りが多いことからしてB級食品に含めることとした。
 また「瀬戸風味」を発売している三島食品には「楠苑」という加工食品、とくに「ふりかけ」に関する資料館まであるという。それによると加工食品としての「ふりかけ」の歴史は浅く熊本の「御飯の友」が大正初期を嚆矢としている。そして丸美屋の「是はうまい」が大正14年、広島もやや遅れるが昭和「露営の友」を昭和9年に発売している。

 さて三島食品の「瀬戸風味」のこと。八王子の食品商社である総市商事部にはこのような加工食品に詳しい人材が多い。その古狸に勧められたもの。彼、古狸君は加工食品を扱って40年になるというが、それほど昔からある定番商品であると言う。
 これを持って市場を歩くと、意外に反響があるので驚いた。数名のぼうずコンニャク同年輩とおぼしきオヤジが「これ懐かしいな。子供の頃から(実際に何年頃かわからないらしい)あったんだよね。昔の母親の手抜きってヤツ」とか「これのりたまより好きだ」という寿司屋まで千差万別。
 発売もとの三島食品は創業は1949年と新しいが「ふりかけ」では老舗であるという。
 さて、さっそく残りご飯を解凍してサラリパラリと振りかけて、ぐぁっしいいと一気に食ってみる。香ばしいかつお節、海苔の風味、これはうまい。そして食卓に置いておくと1瓶が4日くらいでなくなっている。これは子供達にも好評であるということだ。
 さて、この瀬戸風味、ぼうずコンニャクの子供時代は見ていない。でも地元広島では有名なんだろう。

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三島食品
http://www.mishima.co.jp/

 農文協の「聞き書 千葉の食事」にどうしても理解できない食べ物がのっていて、長年気になっていた。それがある日、「永六輔の土曜ワイドラジオ東京」を聞いていたら、タレントのラッキー池田が千葉県市原市にその「とうぞ」を探しに出かけていた。そして実際に市販されているというのだ。
 市原はクルマでよく通るところ。市街地らしい場所も見つけられないでいる。これでは無駄歩きのしようがないのだ。それで外房への山越えでは通り過ぎるだけの町となっている。

 あるというのはわかったものの業者の名前は聞き逃してしまった。しかたなく市原市役所に電話で問い合わせ、「赤石味噌麹店で造っているのだ」と判明。そして「赤石味噌麹店」に「とうぞ」を売る、「房の駅」というお土産屋を教えてもらう。

 そんな「とうぞ」探しをしているとき、我が仕事場にその市原で生まれたという戦前生まれのオヤジと言うよりおじいちゃんの警備員の方がいて「とうぞ」を知っているというので、わざわざ聞きに行ってみた。すると「とうぞ」とはどうも味噌を造るときの煮汁に、また煮た大豆を加え、そこに麹も加えて、切り干し大根を細かく切り込んで塩味をつけたものであるという。これをご飯にかけて食べるのだが「子供心にいや〜な食い物だった」という。
 確かに味噌豆を煮た汁はいい匂いがして、造るたびに捨てるのがもったいないなとは思っていた。でも飲んでうまいものだと思えない。それに塩味、煮た大豆、麹を入れて、しかも切り干し大根。どこをどう想像しても「うまい要素」はないではないか。それでも食材マニアの血が騒ぐ。エイヤ! っと「赤石味噌麹店」に思い切って宅配してもらった。

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 そして届いた「とうぞ」なのだが、思ったよりもドロリとした、ひしお状のもの。中には大豆、麹はあるものの、面白いなと感じていた切り干し大根が入っていない。ひとすくい食べてみるとやや塩辛くて味噌豆そのものの味わいに麹の風味とほんの微かな甘味、そしてドロリとした食感。覚悟していたほどにはまずくはない。むしろ味噌豆が大好きなので、うまいとさえ思える。これをご飯にかけて食べて「なかなかいけるじゃないか」と思っていると家族は味見程度になめただけで見向きもしない。
 どうもこれは大人の男、すなわちオヤジにしかわからうまさであるようだ。ここに切り干し大根が入っていたらもっと良かったんではないだろうか。

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 さて、市原で手に入れた「とうぞ」であるがどうも千葉県山間部、内陸部にはてんてんと存在し、昔から造られていたようだ。そして本来は味噌造りの副産物といったもの。味噌豆をゆで上げるときの「ゆで汁」まで利用するとは千葉県人は賢い。

赤石味噌麹店 千葉県市原市南岩崎32

 山梨県河口湖町の高田屋というスーパーで買い求めたもの。タレ、辛子つきの小粒と栄養納豆の2種類があり、ともに豆の香りもふくよかさも納豆のうまみもあってよいものであった。
 そして地納豆になくてはならないご当地を現すパッケージが見事である。真っ赤な地色に富士の山、鳥居は富士のすそ野をまっすぐに下る本町通りにあるものだろう。
 このようお土産にして結構な納豆は地納豆愛好家にはとても嬉しいものだ。

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丸屋納豆・豆腐製造所 山梨県富士吉田市下吉田1612

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 日本橋大伝馬町でアルバイトをしていたので、かれこれ室町や日本橋には30年近く馴染んでいる。今はなくなった丸善、また三越デパートの本屋のカバー、べったら市など懐かしい。
 そんななかで、「たいめいけん」のラーメンを知ったのはほんの数年前のことだ。「たいめいけん」で年に一度くらいは店内で一品を注文、そしてビールを飲む、というのは言うに言われぬ楽しい一時であ。この店の良さは店構えの立派さとは打て変わって一階の雰囲気はいたって庶民的、値段も驚くほどにはかからない。夕食には早すぎる遅い午後にゆったりビールを飲み、チキンカツを食べて、ついでにボルシチをお願いしても2000円を超えることはない。またこの時間ならパトリシア・コーンウェルに夢中になっていささか長居をしても大丈夫なのだ。そして店脇にあるラーメンのがスタンド(正確には「ラーメンコーナー」)。

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 ここで立って食べるラーメンの値段が650円なのである。老舗洋食店なのだから当然、巷のラーメンよりも割高である。スタンドでラーメンをお願いすると若いコックさんが麺を茹で始める。そこからは店の厨房が全部見える。そのスタンドよりの巨大な寸胴鍋な鍋からスープがすくわれて出来上がる。ラーメン丼の下にはステンレスのトレイというのがいかにも洋食屋風に見える。スープは醤油色に染まるが、とても澄んでいる。そこにやや鹹水の少ない麺が入っているが、これがときどき茹ですぎである。そのためだろうか、麺が粉っぽく感じるときがある。そしてよく煮含められたメンマ、のり、青ネギの薬味にチャーシュー、絹さやがのる。赤く染まったチャーシューはいかにも中華料理といった雰囲気だ。

 さて、「たいめいけん」のラーメン、歴史は遡ること明治時代に至る。「たいめいけん」の創始者である茂出木心護は昭和2年(1927)に「西支御料理処 泰明軒」で修業を始めている。その店の始まりが明治中期、そこでは中華も洋食(食の頃だから西洋料理)も作られていた。そして今現在のラーメン(支那そば)が浅草「来々軒」に誕生するのが明治43(1910)のことである。調べてみると古くは洋食も中華という区別もなく、それらが混合混ざり合って、まるで先カンブリア期のような時代が日本の料理界にはあり、それが明治から大正、昭和の初めなのであるが、そのときに誕生したのが新しい料理としてのラーメンなのだ。創業が昭和7年(1932)の「たいめいけん」では中華洋食の複合体を経験していることになる。ラーメンが「たいめいけん」に存在するのは当時の名残なのである。ちなみに近年、料理の世界は専門化、もしくは分化の時代にあるがこれが進みすぎるのと複雑さ、また物語性に欠けてつまらない。でも急速に複合体の食堂は消えつつあり、カレー、ラーメン、スパゲティと細分化している。

 日本橋といっても広くて、少し説明が必要となってくる。本石町、室町は日銀、三井・三越があり、三越でお買い物を楽しめるオバチャンやお金持ち以外には硬質で面白みにかける。中央通りを挟んで本町には魚河岸があったためかごちゃごちゃと庶民的、ボクのお散歩コースのひとつ。そして日本橋を超えて右手は八重洲、左手が「たいめいけん」のある日本橋となる。一昔前にはここに東急日本橋店があり、高島屋があっていかにも上流階級御用達といった街だったのだが、いまあるのはコレド日本橋(これって「お江戸日本橋」のしゃれだよな)。この裏手が「たいめいけん」。

 どうしてこんなことを書いているかというと「立ち食いラーメン」が650円というのは、この地域で「たいめいけん」だからやっていけるというのを説明するためだ。最近のラーメンというのは新興勢力が高い値段をつけてきている。だから「立ち食いラーメン650円」はおかしくないと思われるかも知れないが、このお隣には庶民的な日本橋本町があり、また神田駅周辺では激安の飲食店がしのぎを削っているのだ。ということで、「たいめいけん」でラーメンを立ち食いするというのはボクにとっては贅沢なのである。貧乏人には日本橋では幾らでも選択肢があり、その価格帯は500円以内である。
 それでもほんのたまにではあるが「たいめいけん」でラーメンを食べるのは、明らかにもの足りない味わい、たぶんイノシン酸の旨味に欠けるスープに深いところではまっているためなのだ。真に真面目にストレートにとったスープであり、また素材のうまみそのもの。そこに加わるものは醤油、塩くらいなのだろうが、これがいいのだ。これをラーメンにしたのも本当はいちばんスープの味わいが出ているからかも知れない。
 最後に、ボクの本音を言うならばラーメン立ち食い650円は高い、それでも「ときどき食べてしまう」のは毎回食べた後に「どうしてだろう、不思議だな」と感じているということだ。その不思議をまた感じたくなる。やっぱり不思議だ!

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たいめいけん
http://www.taimeiken.co.jp/

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 埼玉県浦和といえば「さいたま市」になる前から得体のしれない街であると思っていた。時刻表や路全図を見るのが好きなのだが浦和だけは見ないことにしている。京浜東北線を山手線から外れて北上する。そこに登場するのが南浦和。そして路線図を見ると東西南北の「浦和」があって「中」があり、「武蔵」もある。そしてとどめがただ単に「浦和」である。これなどあっさりしすぎて立ち食いそばで「かけ」を注文するがごとくだ。訪れるよそ者には「浦和浦和浦和」で鬱陶しい、暑苦しい、としか言いようがない。この「浦和」の駅名を考えたヤツは明らかにバカだ。
 何気なく恋人同志が「浦和でデートしようね」と約束したら100年経っても会えやしない。さいたま市は間違いなく少子化を助長している。だいたい浦和を代表する繁華街、古い街並みってあるんだろうか? 例えば「●●街でお買い物しよう」なんて若い姉ちゃんが定番とするオヤジが大嫌いな場所や、黄昏時になぜか色彩をおびてくるオヤジ街、オバチャン軍団が塩大福を買いに並ぶ和菓子屋。これなど街を歩く基礎知識なのだ。
 さて肝心のうまい街の中華料理屋があった話を始めなくてはいけない。さて結局降りたのは「北浦和駅」。アルバイトでなんどか「浦和市内」を歩いているはずなのだが、まったく記憶にないのでこれが「初浦和」。ここに来た理由は抜かすとして、30分くらい駅周辺を無駄歩きした。残念ながら休日でほとんどの商店はしまり、また開いている店もなんら面白みを感じなかった。なんとなく入ったスーパーに地納豆も豆腐もなく、伊勢丹があって埼玉の地酒でもあったらいいなと思ったら今時のバカな日本酒マニアが選ぶような面白みに欠ける全国の銘酒ばかりが並ぶ。「日本酒というのは味にこだわってばかりいたらダメなんだよ、愚か者め」。ちょっとは埼玉の酒を置いたらどうなんだ。腹が立つと腹が減る。これは一種の反作用、条件反射とでも言えそうである。そんなとき目の前にあったのが「小島飯店」なのである。
 どうしてこの店に入ったかと言うと自家製の肉まん、餃子を店頭で売っている。それがなんだかうまそうだなと近寄ると、とたんに中華のいい香りが鼻に直撃。ここまで来れば入るしかないだろう。店の厨房が左手でその前がカウンター、そして左手にテーブルがある。品書きが並んでそこに「一人客はカウンターに座れ」と書いてあるのに少々むっとするが、店員さんはとても感じがいい。レバニラ炒めが食べたかったのだが「レバ野菜」しかない(後で品書きをひっくり返すとちゃんとあった)。そして最近「麻婆豆腐」を食べていないなと思い至ってお願いする。
 少々間があって出てきたのがかなりダサイ代物である。どうして麻婆豆腐の上に貝割れ菜がのっているんだと一瞬憤慨する。まさかと思うが「麻婆豆腐だけじゃビタミンが足りないわ」なんて親切心なのだろうか。そしてトロリとかかった地にくるりと巻きあがった白い物体があるのだ。どうもこれは鶏の皮を香ばしく炒めたものらしい。あとは大盛りと間違えそうなご飯、みそ汁、白菜の漬け物。みそ汁なのが「飯屋風」でいい。
 邪魔な貝割れ菜を脇にどけてレンゲでひとすくい。熱いのを我慢して食べてみる。これが巷の麻婆豆腐とはひと味違うものなのだがとてもうまい。クルクルまいた白い物体が香ばしい、そして山椒風味のぴりっと辛い味付け、そこにモツをを煮込んだときのような風味と旨味が残る。貝割れ菜があまりにも邪魔なのでさっさと片づけて、あっとは一気に食って、最後はご飯をどろどろにして平らげる。
 食っている最中に目の前を焼き上がった餃子が置かれてはテーブル席に運ばれていく。これが気になったのでお土産用の餃子を3パック、そして麻婆豆腐の支払までして1800円弱であった。定食は700円くらいだろうか? 数字に極めて無頓着なので私風に書くと「安くてうまい店」であったと明記したい。
 追記。帰り着いて夕食に焼いた餃子もとてもうまかった。そしてこんな街の中華料理店が残っているのに対して「浦和は少し偉い」と思うのだ。

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小島飯店 埼玉県さいたま市浦和区北浦和3-8-11

 秋葉原の喧噪から昭和通を渡ると、とたんに寂しい、そして哀愁漂う街に変わる。ボクなどのオヤジはとても秋葉原のやかましさのなかでは長く息をしてはいられない。そして息継ぎをしに昭和通を渡ってしまうかのようである。そんな薄暗い神田和泉町昭和通沿いに見つけた店。立ち食いではなく、椅子席なのだが、明らかに店のあり方は「立ち食い」のもの。立ち寄った時間が遅く、天ぷらなどで売り切れが多い。疲れ果てて、しかも昼食抜きで立ち飲みでいっぱいという、ちょっとメチャクチャな無駄歩きの果てのいっぱいのそば。
 その汁は柔らかく、甘味はほどほど、なかなかいい味わいである。麺もそばの味わいがして粉っぽさがない。そして竹輪天にしても店仕舞いに近いせいか冷たく、ちょっと持てあましてしまったが、きっと揚げたてならうまいに違いない。ということで平均点以上の味わいであった。

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 経木にかかる透明な包装紙に○に元とあるので「丸元納豆」なのかも知れない。裏側には「江戸納豆本舗」とあるために混乱する。川越の人よ教えてくれ! ということで非常に地味な地元流通の納豆のようであり、それがために包装紙に関しても無関心であるよう、包装紙表麺にすら最小限の工夫も見られない。川越の各所でこれを見かけた。
 画像のものは製造所を見つけて直接購入したもの。製造所自体が住宅地にあり、幟がなければ気が付かないようなもの。
 使っている大豆は大きくも小さくもなく中くらい。やや硬いが大豆そのものの味わいはよい。納豆菌の臭いは少し感じられるが私には好ましいもの。納豆好きなら好きになるだろう一品。残念ながら子供はいやがってしまったが、これは仕方ない。先々、このままの鄙びた味わいを通して欲しい。

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渡辺食品製造所 埼玉県川越市西小千波2の17

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 今、ボクが致し方なく家族と離れて暮らすことになる。たった一人っきり、じゃあどこに住みたいかというと南千住都電荒川線三ノ輪橋近辺もそのひとつなのである。ここで寂しく悲しい時を送りたい、しみじみ人生を嘆きたい。そして、ボクと同じように寂しい美しい人がいる、なんてことはないだろうが、とにかく一人暮らしするなら南千住がいちばんいい。

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 ボクの三ノ輪無駄歩きは荒川線荒川一中前から始まる。ここから北に向かって1本目の通りに東京でももっとも賑やかで魅力的な商店街があるのだ。この商店街、今の名前を「ジョイフル三ノ輪」と言う。でも川本三郎さんの本を読んでいるとその昔は「南千住銀座」と呼ばれていたらしい。ボクとしては昔の名前の方が断然いいと思う。

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 さて、商店街を西から東に向かう。すぐの所に薬屋がある。ボクは子供の頃から薬屋をのぞくのが大好きだった。白衣、薬を調合するガラス張りの部屋。そのまま進んで左右にシャッターが目立つのは時刻が遅いせいである。
 左手にみそ屋、その先にしまっているが「専門の店 わたなべ 洋傘・ショール・スカーフ」という古びたカンバンがある。右手に惣菜を売る「大津屋」で煮物が専門であるようだ。

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 餃子屋、和菓子の「相州屋」。また惣菜の店があり、ここは揚げ物専門店。

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 左手に「砂場」があり、確かここは各地にある砂場の総本店であると記憶する。

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 そして兵之助刃物店。

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 そして鮮魚の「小川屋」。この店の刺身がうまそうであるが熱い時期で買って帰るわけにはいかない。

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 そして「パンのオオムラ」でイギリスパン(?)を2買う。ここのパンはとてもおいしい。

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 そこから少し歩いて魚屋を見つけるがすでに店仕舞いの最中。

 そのまま南千住駅に向かうべく東に向かうと「三ノ輪橋商店街」という暗い路地があり、そこに写真館がある。

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 またもっと暗い空間にお婆さんが新聞雑誌を売っている。ここまでくるとまるで昭和30年代に逆戻りしたような不思議な気分に陥る。

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 静岡県三島市は江戸に向かうと箱根越えの手前、天下の険を超える前に旅人が三島女郎衆を相手に遊山したところ。また伊豆、駿河湾からの産物は海から沼津に来て、それが三島に来る。その三島の沼津からの入り口にあたるのが広小路ではないかと思う。広小路とはいくつかの街道が交わり、分かれるところ、箱根からの東海道がここで幾筋にか分かれる。たぶんその昔、市が開かれ多くの人を集めであろうところだと思える。
 そして今でもこのあたりはずいぶん賑やかである。ファーストフード、チェーン店が軒を並べ、また三島広小路駅を利用する人、買い物客の流れがある。そんな広小路から路地をはいったすぐの所にあるのが広小路食堂である。この店、三島での魚屋巡りの途中、同じ広小路の『魚正』さんに教えて頂いた。
「ご飯食べるならいいところあるよ。ウチが納めてるんだけど、さばのみそ煮なんて最高だよ」
 こういって広小路食堂のだいたいの場所を教えてくれる。そして正午からだというので三島を回りに回って疲れ果ててたどり着いたのである。時刻は正午。

 でも残念ながら店は締まったまま。あまりに疲れたので「もうよろしいでしょうか」と引き戸を開けると、「あ、ごめんなさいね」といって招き入れてくれた。暖簾はまだ出ていない。
 店内は間口からすると広く、とても清潔である。品書きを見るとカレーライス、チャーハン、ラーメンなどがある、トンカツも、うどんもあり、「大衆食堂」の基本を最低限満たしている。でも不思議なのはそばがない。これは広小路食堂が「大衆食堂」になる前はうどん屋だったのだろうか?
 またこの店を特徴づけているのが刺身定食を始め魚のメニューが多いところ。よく品書きを見ると魚フライ、海老フライのとなりに「まぐろフライ」なる見慣れぬものがあるのだ。これを見るに沼津という駿河湾一の漁港の近さを感じる。

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 品書きには値段はやや高いものの、食べたいものがいっぱいある。あまりに空腹なのでカレーでもラーメンでも食べて、その上、一品というのもあるだろうし、トンカツもカツ丼も食べたい。でも「さばのみそ煮は最高よ」と魚正のオバサンが言ったんだたよな、と思い返してお願いする。
 店内ではここの娘さんだろうか、小さな男の子が絵本を開いている。その娘さんが「ゆっくりしていってください」と頭を下げて姿を消すと、定食が到来した。
 サバは残念ながら輸入ものであるようだが、煮方がとても上手なのだろう、ふっと口の中でとろけるようだ。切り身も大振り。こんなうまいさばのみそ煮も久しぶりである。添えられた冷や奴もうまいし、ししとうの天ぷらもいい。ご飯の盛りもたっぷりなのに少しもの足りない気がする。それだけ味がいいと言うことだろう。

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広小路食堂 静岡県三島市広小路町4-5

 日野市旭が丘は我が家からクルマで数分。ディスカウントショップも多くて交通量も激しい。その一角にあるのが「あさひ軒」なのである。真新しく清潔で広い店内、店員さんの対応はちょっと無機質だがこれ以上ない店造りなのである。
 そして出てくるのが醤油味の色の強いスープ、透明な油が浮かんでいる。そこにチャーシューとメンマ。海苔に肝心要の刻み玉ねぎ。ここまでは典型的な八王子ラーメンである。でもただひとつ違っているのが麺。細く縮れているのだ。まあそれでも八王子ラーメンとしておいても間違いはないだろう。
 さて、醤油で黒く染まっているものの濁りのないスープ、麺の茹で方もほどよく、トッピングされたチャーシュー、メンマとなかなか表面的には見事である。
 でも問題なのはスープ。明らかに旨味に欠ける。あっさりしているとか、上品だとかではなく欠如しているのだ+アルファともいうべきものが。どうもそれで細縮れ麺なのかも知れない。カツオ節だろうか? さば節だろうか? 鶏ガラに加わった香りが立ち上がっている。スープのバランスもこのままでいいし、後はひと味。
 この店、昼でも夕方でもそんなに混んでいるのを見ていない。その最大の欠点は旨味がほんの少し足らないためではないだろうか? 例えば醤油の選択とか大丈夫だろうか。この旨味コクが加わると八王子ラーメン特有のコクのあるスープになる。すると当然、やや太目のストレート麺が使えるはずだ。

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あさひ軒 東京都日野市旭が丘6-5-1
●詳しくは「さやぴぃのラーメンデータベース」へ
http://www.geocities.jp/sayapie3838/database.htm

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 荒川区町屋は都営荒川線、京成、そして地下鉄と3つの鉄道が交差する。それでは賑やかなところか? というと、ちょっと違うような不思議な街である。北千住の足立市場の帰り道、町屋の駅周辺で立ち食いそばの店を探してやっと見つけたのが「八起」である。町屋の駅周辺は今時のおバカな設計者がデザインしたとおぼしき無味乾なビルがどんどん浸食してしまっている。そして昔ながらの街並みがこれまたどんどん消えていっているのだ。「八起」はそんなビル群の一角に張り付いている。
 入って右が食券、左にカウンターがある。厨房にはなかになかなか味のある、にこやかなオバチャンたちが陣取ってボクが食券を買うのを視線で追っているのを感じる。
 券売機で食券を買うのは本当に苦手である。だいたいボタンを押した途端に失敗したなと思う。でもこの店には天ぷらそば・うどんに「お好み」というのがあるのだ。これはとても親切だ。360円だったかな、これを選択するとカウンターで好きな天ぷらを選べるのだ。カウンターのケースにはかき揚げ、春菊や竹輪てんなどがあり、ちょっと考えて見栄えの悪いイカげそのかき揚げにする。このかき揚げは自家製のようだ。
 一軒志野風の丼に入って出てきたものは。出汁はやや甘めならが、旨味もあり、まずくはない。そして意外にさっぱりしている。残念ながらうどんは普通というか、いかにも立ち食いですといった腰のない在り来たりのもの。そこに見栄えの悪いいかげそのかき揚げがのっているのだが、なかなかこれがうまい。

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 食器をカウンターに戻すと下町風のオバチャンが枯れた笑顔を作ってくれた。ちょっとこれが恐いようでもあるが「八起」はときどき立ち寄ってもいいかな? という店である。
●コメントをいただいたアバタノオジサンには申し訳ないが「お魚三昧日記」から移動しました

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 京成線町屋の駅は大好きなのだ。ホームに立つと荒川線を市電が町屋駅に滑り込み、また出ていくのが見える、これを眺めるだけで電車を2本は見送ってしまうのだ。でも下町といっても町屋は無差別で暖かみのない、そしてセンスのないビルにどんどん占有されてきている。それでもこの町屋の荒川線と京成線に仕切られた北西の一角だけに古い街並みが残っている。そこに向かうべく駅から尾竹橋通りを超えると『なんでも鑑定団』で有名になった「流体力学」という店がある。その店を過ぎてすぐ右手に折れると『小林』を見つけることができるのだ。この店、串に刺したモツ煮込みで有名。すなわち大衆酒場なのである。

 町屋の駅は足立市場に行くときに乗り替えるのだが、駅から見る限りビルが迫ってきており、魅力を感じたことがない。それで町屋を歩いてみようなんて思ってもみないでいた。そんなときに久しく会わなかった知り合いと立ち話をしている内に下町の飲み屋の話題で盛り上がり、『小林』の名もあがってきた。でも彼が教えてくれたのはここで食べる「つけ麺」がうまいということだったのだ。「面白いね」と言うと、親切にも地図をコピーして場所まで教えてくれた。
 そんなことで仕事が早めに終わった日に「つけ麺」を食べに町屋に行ってみるかと神保町で買い物を済まして、ふと靖国通りの古本屋で見つけたのが「散歩の達人」の千住・町屋特集。こんな偶然ってあるんだろうかとページを開くと『小林』がしっかり取り上げられているのだ、店主の顔写真とともに。でも予め雑誌の特集を読んでからその店に行くというのはみっともないではないか。千代田線での10分ほど読むべきか、読まないで行くべきか悩んだ末に、結局「散歩の達人」はバッグに放り込んだまま。町屋駅を出たのだ。

 そして『小林』でモツ煮込みなどで酒を飲んだ後にお願いして、出てきたのが思いもかけない形の「つけ麺」だったのだ。ここで今時流行っているつけ麺というのがどんなものなのかを書くと、〈太目まっすぐな中華麺を茹でて水洗い、それを皿に盛り上げて出す。つけじるはラーメンのスープよりは濃いが飲めなくもないほどの味わい〉というもの。ところが『小林』のは冷たい水に縮れ麺が入っている。しかもつけじるがはっきり飲めないと主張するかのように黒く濃そうだ。

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 つけじるにはネギとメンマ、そして海苔が浮かんでいる。その板海苔に大量のコショウ。この海苔の上にコショウがのせられているのがなんとも懐かしい。確か子供の頃のラーメンには同じようにコショウがのっていたのだ。海苔を沈めて、麺をからめてすすると意外なほどにさっぱりとした塩分濃度の高い汁である。そしてその塩分を妨げない旨味。これはまことにバランスがいい。後で調べるとラーメンスープの醤油ダレをモツ煮込みの汁で割ったものだという。つけじるに感じた旨味はモツから出たエキスなのである。
 大衆酒場なので夕方5時からの営業。でもこのつけ麺なら昼に食べてもいいのではないか? ボクは今時の「大勝軒系」のつけ麺よりは絶対にこっちがうまいと思う。

 市場仲間のスーパーに行ったとき、惣菜や加工品の棚に懐かしい「マルシンハンバーグ」の文字を見つけた。「これまだ売っているんだな」と店主に聞くと、「これは今でもよく売れるんだよ」という。じゃあ2,3個買って帰ろうかなと聞くとなんと「売り切れ」だった。
 この店で気がついたのはマルシンハンバーグを肉やハムなどのコーナーではなく、魚肉ソーセージや惣菜のコーナーに置かれていたこと。そして市場で探すと、やはり肉関係の店にはなくて塩干、惣菜などを置く仲買の店にあったのである。

「不思議だな。肉製品でも惣菜関係で流通するのと、明らかに食肉関係の店で流通するのがあるんだね」
 こんなことに感心していたら、
「バカだな、塩干・惣菜を売る店ではね。加工品はなんでも扱うわけよ。逆に生鮮品は扱わない。それにマルシンフーズは餃子もあるし、どう見ても惣菜メーカーなんだよ」
 仲卸なので1箱(10個入り)単位である。卸値からすると1個100円前後となる。そして翌日1箱持ち帰り、箱から出てきたのが昔ながらの紙(?)で包装されたもの。この紙に印刷された「みみちゃん」というのも懐かしいな。

 マルシンハンバーグを初めて買ったのはもう30年以上前のこと。世田谷駒沢交差点そばの西友で姉と買ったんだった。
 上京してきて三軒茶屋で机や椅子、洗面器、箒などを買って、弦巻の四畳半一間のアパートがやっと住まいらしくなった。鍋釜、食器などは実家から届いていて、気が付くと夕方近い。そして本当に初めての自炊というときに出くわしたのが「マルシンハンバーグ」なのだ。
 初めての食料品の買い出しというのは思った以上に大変なもの。姉が付いてきてくれたとはいえ、想像以上の大荷物となってしまった。そこに姉がこれは便利だからと言って2つ薄いビニール袋にいれてカゴに入れた。そう言えばこの薄いビニール(?)の袋に自分で野菜などを入れるというのもこのときが初めて経験した。

 このマルシンハンバーグ、袋から取り出すと表面に白くラードがへばりついている。フライパンを熱すると油を引かないでそのまま焼ける便利なものなのだ。ご飯を炊いて、後はマルシンハンバーグを焼くだけという簡単な食事が18歳、一人暮らし一年目の定番になったのは言うまでもない。当時いくらだったのだろう? これで夕食というのが少し贅沢な気がしていたのだ。

 さて、ほぼ20年以上食べていなかった、マルシンハンバーグだが、思った以上にうまいのだ。豚鶏牛と3種類の肉が混ぜ合わせてある。そこに工夫があるのだろうか、焼き上がりが軟らかく、子供達にも人気上々。遅く帰ってきた一人っきりのお父さんの夕食にもぴったりかも。
 昔はこれにソースをかけて食べていた。太郎はケチャップを山盛りにしている。そう言えば、これに醤油をかけていたヤツがいたな。アイツどうしているんだろう?

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マルシンフーズ
http://www.marushin-foods.co.jp/
●これは一部書き直して「お魚三昧日記」から移したもの。コメントいただいた方のはごめん、ごめん

 下町で見かけるものに「洋食・中華」の暖簾、カンバンをかかげた食堂があるのは前回書いた。すなわち食堂という形式が生まれたのは、どうも大正期であったようだ。そして昭和から高度成長期までに絶頂期を迎え、今や衰退期に入っている。この「食堂」が誕生するには明治期の食の混乱、食文化の撹拌・混血がどうしても必要であった。
 江戸末期の開国、明治維新によってフランス料理やイギリスなどのパン、また牛乳(彼の伊藤左千夫など東京駅周辺で酪農を営んでいたのだ)など、欧米の食文化が一度期に流れ込んできた。これが徐々に都市部に浸透してきて、また日本人の好みに応じて変化をする。ここにウスターソースが国産化されるまでに普及。カレーや豚カツなどが生まれた。また中華料理は1894年の日清戦争以後「支那料理」と呼ばれ、徐々に我が国に普及し、これが日本製中華料理である「ラーメン」や炒め物などを生む。これら外来のメニューと混血型メニューに、ついでに和食であるそばうどんまで取り込んだのが「食堂」というものである。
 現存する「食堂」は成り立ちから2系統に分かれると思っている。明治の洋食、支那料理から派生してデパートの大食堂、そして神田須田町に誕生した多様のメニューを売り物にした「須田町食堂」などから生まれたタイプ1(混血型)、江戸時代の「煮売り屋」から、ほそぼそと続き戦後焼け跡の闇市、または高度成長期に自然に生まれてきたタイプ2(和食型)である。タイプ2に関しては別項を立てなければならないが、このタイプ1の正統に近いのが「中華・洋食」の食堂なのだ。タイプ1の最大の特徴が食文化の多国籍混血化である。これを説明するに清澄白河の「ことぶき本店」のメニューを見て考えてみる。

 食堂形式のメニューで最初に必須的にあるものが単品満足型メニューである。洋食系ではカレー(インド・イギリス起源のカレーにご飯)、オムライス(オムレツにご飯)、チキンライス(鶏肉、ケチャップにご飯)があり中華系にもラーメン(鶏ガラに和のしょうゆと煮干しなどを加える)、炒飯(本来は「やき飯」だった)の同レベルのメニューが存在する。その単品系に丼ものが悠然と存在していてカツ丼は洋食系、中華丼は中華系、親子丼・玉子丼は単純に和系に見えて明治の食の混乱期に生まれた突然変異型和系にあたる。最後の突然変異型和系の嚆矢は「牛鍋」もしくは「すき焼き」なのであるが、これも別項を立てる。
 実に食堂のメニューにあってこの単品満足型メニューがいかに重要かつ食堂の最大の検索項目であるかはわかって頂けるだろうか? これらを生み育ててきたのは明らかにタイプ1型食堂である。
 これら単品満足型メニューからすると他の単品組み合わせ型メニューは明らかに進化していない。もしくは原始的な形態であるのがわかる。例えば豚カツは本来の「コートレット」もしくは「フライ」そのままであるし、洋食メニューの多くはこの「フライ」の系統である。ポークソテー、オムレツなどは変異すらしていないのではないか? 中華の炒め物、シュウマイも同様である。すなわち単品組み合わせ型メニューはだけではタイプ1型食堂の本質は語れないということになる。
 すなわちタイプ1型の食堂は明治から昭和にかけて固有な、また歴史的な役割の担ってきたのだ。
 さて、なぜにここまで食堂の系譜、成り立ち、固有の食文化であるかを述べてきたかというと、今やこれが絶滅の危機に面しているからだ。どうも多くの人たちが食堂の固有性を認識していないのではないか、例えば食堂のカレーは専門店のカレーとは違う「カレーライス」であるし、チキンライスにラーメンという取り合わせの妙も知らないヤカラが多いようである。鳥類のトキ、魚類のミヤコタナゴの希少性、また保護の緊急性を問われているが、この食堂の絶滅回避も我が国の重要な案件ではないか? ぼうずコンニャクは真剣に考えているのだ。

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半蔵門線清澄白河駅近く「ことぶき本店」

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 日野市は人口こそ17万人と少ないものの、大企業の研究所や工場が多く日本でも中規模の市なのである。それなのにYAHOO電話帳で調べる限り「食堂」というものは16軒しかない。ラーメン店28、ファミリーレストラン20よりも少ない。また驚いたことにスナック75、居酒屋69と言うのも不思議な話である。これはどうも飲食店の専門店化が進んでいるせいだと思われるのだ。
 まあボクは統計学というものに疎いので数字を上げても仕方がない。でも大好きな食堂が16軒ならがんばれば全部回れそうでうれしくもあるのだ。
 そして肥満防止(防止ではなく、これ以上太らないため)のサイクリングで見つけたのが『三福食堂』なのである。甲州街道から日野台に向かっての道路は広い割に静かなだ。店の前にサンプルを入れる陳列台。そこには人形や置物が所狭しと置かれている。素人考えながら、せっかくなのだから品書きでも立てて置いたらいいのに、と思ってしまう。
 やっと見つけて、そこには営業中の札が下がっている。嬉しくなってさっそく自転車を止めると店の脇にいた老夫婦が慌てて店内に入る。店内は奥に座敷のようなもの。手前にテーブルがあり、いたって不思議な配列になっている。品書きは多く、丼物はすべて揃っているし、カレーもある。定食に「タイカス(アラスカメヌケの粕漬け)」とあるのも古い食堂の特徴なのだ。またこの店に野菜炒めなど中華の料理はなく、洋食のオムライスもない。チャーハンとカレーは洋食と中華というのではなく、食堂として必須だから置いてあるといった感じがする。この品書きを見て、どうもここの店主はいわゆる食堂で修業したのではなく、日野市ならではの企業脱サラ組ではないのか? と勝手に思ってしまった。『市場寿司 たか』の渡辺さんによると日野台、大坂上などには日野自動車に勤めていた人で食堂や居酒屋を始めたという店が少なくないという。
 さっき店の脇でいた老人が注文を聞くと厨房に入った。その仕切には皿が並び、作り置いた物を選ぶことも出来る。残念ながら午後も遅い。今回はラーメン550円に決める。
 火を落としてしまっていたようでなかなか出来上がってこない。やっと来たのが鶏ガラ醤油味のスープ、チャーシュー、メンマ、練り製品のなるとのトッピング、非常にオーソドックスな浅草来々軒もかくやというもの。スープは明らかに鶏ガラだろうが、そこに微かに魚のイノシン酸の旨味がある。味わいが軽いのは味の素などを適度に使っているためだろう。とても好ましいスープですするとジワリと旨味を感じる。麺は細めの縮れ麺。チャーシューが軟らかくてうまい。ボクとしては肩の力が抜けた普段着のこんなラーメンがとても食べたくなる時がある。どうもこの手のラーメンに最近とても惹かれるのだが、これは年のせいだろうか?
 店の感じもラーメンの味わいもとても好ましい『三福食堂』。こんどは定食を食べに来るのだ。

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三福食堂 東京都日野市日野台4丁目11-8

 亀戸無駄歩きは驟雨沛然、そして曇り空、そして驟雨沛然、まったく全身ずぶ濡れになってしまって、もう歩けないと思ったら踏切があった。そして遮断機が下りて左手から来たのが曳舟行き。踏切を渡り、もうこれ以上歩いてもなにもないらしいと、振り返ったところに立ち食いそば屋を発見した。
 しかし、その店構えのはなはだしく殺風景なこと。真冬にここを通ったら思わず避けて通りたくなるようではないか? そして引き戸を開けると、くの字型のカウンター、奥は座敷、そしてカウンターの中にはとても愛想のいいオバハンが立っていた。傘を置くと、「まだ雨が降っていますか?」と聞いてくる。その声がなんとも軟らかい。ここで天ぷらそばをお願いする。ゆったりした動作で出来上がった天ぷらそば、汁の色合いは黒く、かき揚げは自家製なのか市販のものなのかはわからない。そしてそばはやや粉っぽく、つゆは濃くて旨味に欠ける。いかにも立ち食いですといったものだが、まずいわけではない。

「ここはどうして水神そばって言うんですか」
「あれ、そこに水神様、お客さん、ここは初めてですか」
「そうなんです。亀戸駅から迷ってこちらに来てしまって」
「そこに駅があるんですが駅名も水神って言うんですよ」

 そばの脇に置かれたキュウリの漬物がうまい。
「これは私が作ったんです」
「うまいですね」

 平凡なそばだが、この5分ほどの時間がよかったのである。外に出ると雨はあがっていた。

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 2005年9月に新潟に行った。しかも日帰りで行ったのである。その上、ぼうずコンニャクの旅は忙しくて、全開で動き回るのだ。いっさいの行楽気分はなく、あるのは探求心だけである。そんな新潟の旅の帰り道に立ち寄ったのが信濃大町市アップルランドというスーパー。このスーパー、なかなか凄い。私、へそ曲がりオヤジが見ても凄いのだからいい店舗としかいいようがない。「こんな店舗を作るやつあーやるじゃネーか」と感心しながら、帰宅した後の算段をする。夕食をどこかで食べるために熟睡している子供達を起こすよりも、食べ物を買って帰った方がいい。
 そこで見つけたのがこのラーメンとソバ。カップに麺と具、そしてスープが入っている。すなわち慌ただしくハードな日に食器も汚さないでそれこそ「お手軽」に食べられる。そして、このそばもラーメンもうまかったのだ。カップに麺を入れて熱湯を注ぐ。そして湯を切り、こんどは液体スープを入れてまた熱湯を注ぎ具を入れて出来上がり。この間3分もかからない。それでいて、充分にうまい。子供なんか「すっげえうまい」なんて過剰に感激している。本当にお手軽で味がいい。とてもお湯をかけるだけとは思えない。
 このうまさはどうも味造りのセンスのあるメーカーによると思われる。長野県茅野市の『原田製麺』えらい。

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原田製麺 長野県茅野市米沢植原田36 フリー0120-27-2442
『お手軽そば』239円、『お手軽ラーメン』281円(2005年)

 チキンラーメンは1958年に安藤百福が発明し発売した。当初は箱に入っていたらしいのだが、この箱入チキンラーメンの記憶はない。また日清食品のサイトから見る限り、どうも昭和42(1967年)のものにある子供の絵に記憶があり、初めて食べたのはこの時期かも知れない。とすると小学5年生だったことになる。ただどうも袋の記憶よりもかなり前に初めてのチキンラーメンを作った記憶がある。貞光という町に初めてスーパーが出来たのはいつ頃のことだろう。そのときは町中の人が、そのマルサンというスーパーに集まった感がある。ボクも兄や姉に連れられてお小遣いをもらっていったのだ。そのときに子供の間で話題になったのが白いマジックというもの。当時はマジックというと「黒」という概念があって、なぜなんだかそれが欲しくてたまらなかった。そのスーパーの開店と時期を同じくしていろんなお菓子やインスタント食品がボクたちの暮らしになだれ込んできた。
●マジックインキが寺西化学工業所から発売されたのが1953年のこと

 ということでチキンラーメンを初めて食べたのは何時の日か? それは曖昧なのだけれど、その光景ははっきり記憶している。誰が買ってきたのだろう? チキンラーメンの袋があり、作り方を兄が読んでいる(この光景は今での我が家で繰り返されている)。袋の説明には丼に麺を入れて、お湯を注ぐ、上から皿などでフタをして3分待つとあったはず。この記憶からすると明らかに小学校の低学年、兄は5〜6年生の頃、1965年以前となる。

 ここで「ラーメン」の話。私が初めてラーメンを食べたのは生まれ育った貞光町南町の食堂だった。片田舎なのに葉たばこの集散地であり、うだつの上がる家並み、商店街が形成されていた貞光町。その一部落であった南町という小さな部落でも食堂は3軒あり、「田岡食堂」と、確か「みどり屋」という屋号の食堂。あとの一軒はお好み焼き屋であったようなのだが食堂も兼ねていた。この屋号が思い出せない。たぶん、「みどり家」がラーメンを初めて食べた店である。ここで初めてコショウの辛さを体験した気がする。そんな鄙には珍しいラーメンが家庭でも楽しめる。これは子供心にも事件だったはず。

 我が子供のときに過ごした家の食堂は古く、まさに江戸時代の様を残していた。おおよそ10畳くらいの空間の土間。板間があり、その板間から畳の食事をとる空間がある。そして土間の南に水を扱える流し。味噌など入れる納戸がある。そして北側にはレンガで組んだ土台上にガス台。ガスはいつの頃からあったのだろう。家の外には九度があり、早朝のお湯や蒸しものはそこでやっていたのだ。
 そのガス台でお湯を沸かしている。丼を探して兄とチキンラーメンを入れる。困ったのはフタである。チキンラーメンの説明書には皿などでフタをしろと書いてある。でもちょうどいい皿がないのだ。余談だがこの時代にはラップなんてものはなかった。我が家にあった皿は総て輪花であり縁がでこぼこしている。丼にチキンラーメンの揚げた麺のかたまりを入れて、熱湯を注いでも隣花の皿を乗せた。でもこれだとしっかりフタにならない。また子供なので沸騰していたのかも疑わしい。
 結局出来上がったものは麺がもどっていない上に、お湯の量も多すぎたのだろう。とても食べられたものではなかった。以後、ずーっと「チキンラーメン=まずい」と思いこんでしまって食べなかった。チキンラーメンを食べないでいたのにはエースコックのワンタン麺(1963年発売)や明星食品のチャルメラ(1966年)などが発売されたのも大きな原因。これらのインスタントラーメンは鍋で作るので失敗することがまずない上に子供心にもうまいものだった。

 チキンラーメンを初めて食べて、失敗したせいかとてもまずくて、敬遠していつの間にか40年近くたっている。そんな昨年、娘がチキンラーメンを買ってきた。作って食べているので、ついでに作ってもらった。そして食べたのだが、結局個人的にはこの味つけが嫌いだということを気づくだけとなった。もうたぶん二度と食べようとは思わないだろう?

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http://www.chikinramen.com/island.html

 静岡のおでんというと駄菓子屋などで売れている真っ黒な汁のもの。これが実際に探そうと思うとなかなか見つからない。これをまた食べてみたいと思うようになって6年近い月日が流れている。
 初めて食べたのは20年ほど前、藤枝市だと思う。焼津から島田市に戻ろうとしてカーナビのない時代であったので迷いに迷って疲れ果て飲み物を買おうとして入った店にあった。ちなみにそのとき非常に空腹だったのだ。なにしろコンビニがどこでもあるようになったのはそんなに昔のことではない。せいぜいここ10年くらいのことであり、ちょっと腹が減ったと思ったら食堂に入るしかない。そんなとき目の前におでんがあったらどうするか? 当然のごとくいっぱい食って、午後3時過ぎだというのにお腹パンパンに膨らみ、島田市の名店「かに柳」の料理もさすがにあまり入らなかったのを覚えている。
 さつまあげ、黒はんぺん、卵に牛筋、みなうまかった。これでビールでもあればなといっても駄菓子屋のことで、あるのはコーラとかジュースだけ。考えてみると当時は缶入りのお茶も、当然だがペットの飲み物もなかったのだ。それから月日が経ち6年ほど前から静岡でのイルカ料理を探している。そんなときに「静岡では昔はおでんにイルカが入ってました」といったことを沼津の市場関係者から聞いた。それはどんな味なんだろうと食べてみたいと常々思っているのだが果たせないでいる。
●静岡のおでんで今でもイルカの入っているのを知っている方はご連絡いただきたい。
 さてそんなときに三島市三島駅そばのセブンイレブンで見つけたのがこれである。缶ビールほどの缶に辛子がぶら下がっている。珍しいなと思って、買ってしまった。
 これがなかなか静岡おでんの味わいをよく再現していてうまいのである。真っ黒な汁、出しの味わいに牛筋の旨味がよく引き出されている。中身は黒はんぺん、さつま揚げ、なると、糸コンニャク、牛筋と煮汁がよくしみてうまいではないか? これなど遅く帰ったお父さんが寂しく酒を飲むのにもってこいだ。
 世の中の家族に捨てられたオヤジはみな一人寂しく「静岡おでん」を食べたらどうだろう。このときやるのは合成酒のワンカップ。煮汁も人生も、そして行く末もみんな真っ黒という統一感があっていいではないか!

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静岡おでんのことは
http://www.at-s.com/html/gourmet/oden/index_b.html

 無駄歩きで半蔵門線水天宮前で箱崎方面を霊岸島に渡る。今回の無駄歩きはただただ寛永に出来た霊岸島に言ってみたかっただけなので、ビルだらけの島で空腹感を覚えてたまたま見つけたのが「がんぎ」であるだけだ。
 自動ではない引き戸を開けると自動販売機がある。肌寒いし、腹が減っていたので天ぷらそばにするべく探したが見つからない。それで「もり・かけ」というのと「イカ天」の券を買う。それをカウンターにだすと出てきたのが所謂立ち食いの「天ぷらそば」ではなく、イカ天ののったざるそばであった。
 店内を見るとここは立ち飲みも出来るらしく、冷や酒400円を追加する。この冷や酒がうまい。新潟の酒だと言うが銘柄を忘れたのが残念。そしてそばなのだが、新潟県十日町市ならではのフノリの入ったもの。そばのつなぎではトロロアオイやオヤマボクチなどがあるがフノリのものがいちばん苦手なのだ。フノリは海藻の香りの強いもので、どうしてもそばの香りや味わいを殺してしまう。また、つけて食べるには表面が海藻の食物繊維でコーティングされて滑らかすぎる。でもまあよくできた麺ではないか、そしてつけ汁だが、これもなかなかいい感じなのだ。カツオ節の風味もあるし、辛口なのがいい。そばと天ぷらで400円前後、冷や酒400円で硬質な都会からいっとき逃れていられるなら安いものだと、ちょっと感動した。

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 今日の朝刊を読んでいたら元阪神、今はどこにいるのか興味がないからわからない野球選手が参院選に出る可能性があるという。どこから出るかというと自民党と民主党、ともに要請があるという。この2つの党はバカというか急速に知能が失われた状態にあり、まるでタコノマクラのようになっているようだ。だいたいスポーツ選手なんて存在は「物事を考えないから」なれるわけでろくなモンじゃない。地元にデカイ建物を建てて喜んでいる代議士と元スポーツ選手の代議士はゆるせないな。
 ボクは自民党にも民主党にも怒りを感じて「なさけなく」見ていて「汚物を見る」ように感じている。コヤツら生きていて恥ずかしくないのか? だいたいヒットラーそっくりの戦争好きそうな安倍真三といい、弱者いじめばかりしている現首相と言い、どうして我が国には恥をしらないヤカラが多いのだ。
 と怒りを頭に昇らせていたら「永六輔の土曜ワイドラジオ東京」にやまちゃん先生(どういった文字を書くのだろう)が出ていた。この人の今を、そして現実を見る目がまっすぐでいいな。大分の養護の先生でガン患者であるということだが、病気が病気であるために、ときどき出てくれると「よかった」と思う。この女性が語る言葉ひとつひとつに普段着のよさがあって、とても爽やかである。この人がいるだけで大分に住みたいと思う。これなど大分の政治家にわからないだろうな?(このやまちゃん先生がラジオなどに出ると周りの教師などがいじめるのだという。そのようなヤカラは大バカ野郎だ!)
 そう言えば日本人はなぜ、普段、もしくは「け」を大切にしなくなったのだろう。オリンピックで金メダルを取るより、老齢になっても山の斜面でコンニャクイモの作付けをやめないお婆さんや、遠洋漁業で日夜働いている漁師さんの方が3万倍も見事だと思うし、松井のホームランなんて普段の生活を大切に思う目、気持ちがあってこそ楽しめるのだ。何しろスポーツはどこまでも遊びだ。生きるということからしたら「下」のものである。だいたい普段の生活と比べて100分の1の意味もない。ボクなど今の形のスポーツは国を悪くすると思っているので汚染物質を見る気分にさせられる。
 そんな世界から代議士に出るなんてゆるせないな。「スポーツ選手は代議士になってはいけない」という法律を作れ!
●スポーツが好きな方のは失礼しました

 三嶋大社の四つ角から三島大通りを西に走る。この通りが少しも面白みがない。西に向かって右手に「クマノミ雑貨店」という古い家屋を利用した今風の店があり、これは街作りのひとつの方向性があっていい。このお手本は飛騨高山ではないか? ボクのようなオヤジにはとてもついていけない品揃えではあるが。

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 そこを過ぎると左手に三石神社。このように商店街にぽつりと神社があるのが、とてもいい感じである。その隣が地元の人もすすめてくれる鰻屋である「桜屋」。

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 そして伊豆箱根鉄道の踏切を超えると右手が三島広小路駅。広小路というのは上野を考えてみてもわかるように特別な意味をもった場所であるはず。例えば幹線道路の交わるところ、また幹線道路が分枝するところ。当然、人が集まってくるわけでここには市が立ち、見せ物などが集まってくる。

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 この広小路界隈が活気がある。そこからまたまた西に向かう。実を言うと沼津から三島に来るときに、この通りを来たのであるが、気になる店を見つけたのだ。

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 それはほどなく左手に見えてきた。店の前に自転車を止めて、とにかく店内に入る。そこには古めかしい佃煮などを入れるケース。みその桶。店の奥の暖簾に「林屋のつくだ煮」とある。「ごめんください」となんどか声をかけてとても感じのいい女将さんが出てきた。でも残念ながら佃煮の製造はやめてしまっているという。自家製なのはみそと煮豆だけ。これはせっかくだから買ってきた。

 そこから一本北の通りに向かっているとこぎれいな魚屋を発見。ここで味付けマグロというのを買って、すぐに通りにぶつかる。これを東に向かったら、さっき通った広小路の駅にぶつかる。もう一度踏切を超えて、本町の「魚貞」さんにもどる。ちょうどご主人が大きなクエと格闘しているところ。これをしっかり撮影して、もう一度広小路に。ここで「魚政」さんから教えてもらった食堂を見つけるが正午からの開店であるという。少し広小路界隈を自転車で走る。そして正午、その「広小路食堂」に戻ると二軒隣に人だかりが出来ている。そしてお婆さんが倒れていて。「頭から血が出てるよ。早く救急車を呼べ」「動かすな、動かすな」「お婆さん、どうした」と取り囲んだ人たちの声が飛ぶ。

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 ちょうど正午なのに「広小路食堂」が開く気配がない。仕方なく引き戸を開けて「まだですか」というと「どうぞ入ってください」という。ここで美味しいサバみそ煮定食を食べる。満足して、三島大通りを東に、お土産を探したが、結局なにも買わないで三島を後にした。

 今回、沼津魚市場仲買の菊地利雄さんに三島市本町の魚屋「魚貞」さんを紹介されている。それで市営駐車場にクルマを入れて三島大通りを三嶋大社の四つ角から西に向かう。
 古そうな酒屋、履物店、食堂に銀行、そしてまた南北に伸びる大きな通りにぶつかって北に向かう。するとすぐにあったのが古本屋の「北山書店」。入ってみると思った以上に面白そうで懐が寂しいのもあって早々に出る。

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 そこからまた北に向かって下着専門店の角を西に折れたところに「魚貞」さんがあった。「魚貞」さんはちょうど沼津から帰り着き、荷を下ろしているところ。
「11時くらいには魚が並んでいる」というので、また南北の通りに戻り、東海道線・伊豆箱根鉄道の三島駅に向かう。この通りが適度に庶民的で面白かった。北山書店の通りを隔てたところに古い理髪店、隣が時計屋、そこに路地があって不思議な空間が出来上がっている。商店街に生まれるとわかるのだが、こんな路地が子供には貴重なのだ。

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 通りを北上すると古めかしい食堂。また食堂。「びっくりぜんざい」に中華麺類、餃子とあって店名が「宮福」。この通りの不思議でさびれた感じがとてもいいのだ。


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 そして坂道になって左三島駅という表示かあり、その手前に「桃太郎玩具店」。この黄のカンバンの素晴らしく時代遅れであることよ。そして端っこの「M」とあって「MOMOTARO」というロゴデザインの見事さはどうだろう。

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 そこから坂を上ると三島駅。これがちょっと無味乾燥な寂しいもの。うろうろしても洪作少年の影すら見つけられずに、こんどは駅前の通りを西に向かう。朝方とうって変わって太陽が燦々、間違いなく気温は遙かに30度を超えて、激しく喉が渇く。仕方なくセブンイレブンに飛び込んでポカリスエットを買ったらレジの横に「静岡おでん」という缶詰が置かれている。これが315円なので、買ってしまう。
 駅前にあるのが楽寿園という公園。このような施設にはまったく興味がないので、また三島大通りに下る。

 八王子市にはしょうゆ味スープ、表面に透明な油、ストレート麺、チャーシューにメンマ、海苔、そして独特の味わいを造り出している刻み玉ねぎがのっている言うなれば「八王子ラーメン」というのがある。これを始めたのは中野上町の「初富士」という店であるらしいのだが、もうひとつ子安の「タンタン」という店がある。ここから楢原の「みんみん本店」がのれん分け(親子なのだという)、そこで修業して日野市に店を出したのが「みんみん」なのだ。
 このラーメン店、明らかに日野市ではもっとも人気のある店である。昼など行列が出来る。そんな有名店に数年前に異変があった。それは「みんみん本店」で修業をしたご主人が、なんと娘婿に殺されてしまったのだ。
 当然、閉店するのかなと思っていたら、いつの間にかまた店が再開されていて、やはり昔通りにうまいのである。この店のラーメンの味わいの中心にあるのは濃厚な醤油のコクである。ところがここまで濃厚な醤油味なのに決してくどくなく、麺とスープをすすった後味が軽く、ややもの足りなく感じて、またすするといったことになる。この醤油のコクがご飯にも合うので、ボクはいつも半ライスをつける。
 日野にあって正真正銘の「八王子ラーメンの名店」である『みんみん』、ここで食べるたびに肥満が加速するのだけれど後悔はしないのだ。

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みんみん 東京都日野市多摩平3-3-14
●詳しいことは「さやぴぃのラーメンデータベース」へ
http://www.geocities.jp/sayapie3838/database.htm

 東名を西に走らせて、沼津にはなんども足を運んでいる。その沼津のほぼ隣町が三島市なのであるが一度も立ち寄っていない。この隣町に行ってみたいと思ったのは井上靖の「夏草冬濤」の洪作少年が沼津の中学に通うべく暮らした街であるし、また修善寺まで走る「伊豆箱根鉄道」の起点でもある。すなわち伊豆の玄関口は東伊豆が険しい山岳地帯が海になだれ込みふさがれていて、明らかに半島の西にあるのであって、陸路でのものが三島、海なら沼津なのだ。たぶん殷賑を極めたであろう三島の街をただただなんにも考えないで無駄歩きをする。
 それでもあまりにも行き当たりばったりでは時間が幾らあっても足りない。少々調べてみようとして思い浮かべたのが三嶋大社、「のーえ節」など。でもこんなものに興味はない。また魚にミシマオコゼというのがいて、これが「三島おこぜ」なのかという渋沢栄一の文章は有名だが、街自体とは関連が薄い。あとは唐津焼きの「三嶋手」といわれるものは器の表面に細かい文様が彫り込まれていて、これが「三嶋暦」に似ているための呼び名。でもこれも街とはなんら関連がないのであるなあ。
 仕方なく街歩きの前に市役所に立ち寄る。ところがここにはなんの情報もないのだ。地図と言えば明らかに観光的なもの。街を訪れる人間に用意されている地域の情報と言ったら観光的なものだけでいい、というのが日本の地方公共団体の考えた方なのはもう散々思い知らされているが、ここ三島などその最たるもの。市内の街並みにどんな特徴があるのか「色町」なのか「庶民のマーケット」であるのか、はたまた老舗の多い古くからの繁華街なのか、無駄なモニュメントや建物を立てるくらいなら街の詳しい地図を作って欲しいものだ。また市役所職員でもっと地域に詳しいヤツはおらんのだろうか?
 と、ここまで書いてきて思ったことは「町歩き」「街歩き」が趣味だという人は少ないのだろうな、ということ。「三島に来たら三嶋大社」で、街にはなんの興味もないという大バカ野郎たち。また「街に残る古い店や、昭和の名残など、まったく無駄だ」と考えて排除したいヤカラも多すぎるのだろう。だから長崎新幹線(これを作りたいと思う奴らは人にも自然にも優しくないバカ野郎だ)などの街殺しの大型公共事業を愚かにも考えてしまうのだろう。
 いかん閑話休題。
 ともかく何も考えないで三島の街を「青い稲妻号」で無駄走りするのだ。

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三島市役所は簡素で無駄使いをしていないもの。これはともかくも市として合格

 夕暮れ迫る南千住というのは歴史を知る人なら鬼気迫る思いになるのではないか? なぜなら江戸城にとってここは鬼門。かの小塚原の刑場のあったところ。三ノ輪から南千住へ向かうということはすなわち刑場に向かうということなのだ。ちなみに「小塚原」というのは「骨が原」のことなのである。この仲通を抜けると、その小塚原にちなむ「コツ通」そして回向院に出る。

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 さて荒川線三ノ輪橋、すなわち終点で降りて、日光街道を超える。ここにいかにも繁盛していそうな焼きトン屋があって後ろ髪を引かれながら仲通を歩く。少々、時間がおそくて大方の商店は閉まっている。そんなときに右手に「酒処 居酒屋」と書かれた暖簾が下がり、引き戸を千鳥足のオヤジさんがガラッと開けて、「おっ」と声をかけると「遅かったな」と中から声がかかる。ついついつられて一緒に入ってしまいたくなる。

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 もんじゃ焼き、スナック、針灸マッサージ、その上に群青の夜空。ふと路地をのぞくと古めかしい酒屋がある。ここで見つけたのが蜂ブドー酒、デンキブラン、亀甲宮焼酎、ユニオンソースもあるのだ。この「ひこ屋酒店」、その昔は大きな倉庫をもって繁盛していたそうである。それを語るオバサンの懐かしそうな顔つき。

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 また仲通にもどると魚屋、和菓子店があるが閉店間際。結局、「ひこ屋」で亀甲宮、ユニオンソースを買っただけ、いつの間にか「コツ通」まで来てしまった。

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 通りを超えると常磐線南千住。そのまま無駄歩きをお仕舞いにするつもりがガード下で遭難。クルクルと景色が回るのをぐっと堪えて帰路につくのだ。後は記憶がない。

 今年の夏は辛い日々の連続であった。初夏にはガン検診に引っかかり、本業にも嫌気がさし、かといって「市場魚貝類図鑑」の改訂も進んでいない。その最悪の日々の最たる時間が中央線に乗り込むときなのだ。これに乗り込むと「素」を捨てて仮面を付けることになる。単調な小一時間、お茶の水に向かうときが変身の苦しみを感じるときである。そんなホームに見慣れぬ車両が滑り込んできた。
 中央線も味気ない造りだが、この電車もまことに特徴のない面突きをしている。なんだこれはと車掌さんに聞くと「南武線なんです」とさもつまらなさそうに言うのだ。南武線は総てが各駅停車という不思議な線。各駅停車しか走っていない線というと「八高線」「茅ヶ崎線」「横浜線」なんかがあるが、どれも多摩地区から都心を円周上に回るものばかり、放射線上のものは賑やかなのに、こちらはローカル線なのである。
 これをぼんやり見ていると、ふらふらっと南武線にでも乗って、どこでもいいから知らない街に降り立ち、あたりを無駄歩きしたくなる。でもそこに時間通りに中央特快が来て、乗ってしまうんだから夢から覚めるのは早いのだ。

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 最近、自宅にこもっているときは昼ご飯はラーメンと決めてしまっている。さてお昼時を過ぎたし、どこへ食べに行こうか? と思ったときに見るのが八王子の「八麺会」と「さやぴぃのラーメンデータベース」なのである。この「さやぴぃのラーメンデータベース」で見つけたのが「弘前軒」なのだ。日野にあって南平はディスカウントショップがあったりするもののわざわざ行くようなところではない。考えてみると、ここにあった巨大な雑貨屋、たしかダイクマに来たのがかれこれ五年以上前のことだ。これが今やデカイ電気屋に変身している。その電気屋の駐車場に止めてすぐ真横が「弘前軒」なのである。確か、ここは幾度も店名を変えてラーメン屋が敗退していった場所ではなかったか? そして時刻は午後2時過ぎ。店内は8割方うまっている。この時刻からすると大盛況といっていいだろう。
 この「弘前軒」のある場所は幹線道路とそれの脇道の間にある細長い建物。店の長さはかなりあるものの奥行きは2メートルもない。そこにカウンターだけの清潔な店があるのだ。カウンターにすわり周りを見るともなく見ているとお客のほとんどが「つけめん」を食べている様子。すなおにそれに従って、少々待つ。
 出てきたのはラーメン通なら「大勝軒」スタイルとでもいえそうなもの。太目のストレートな麺、海苔が一枚。そこに小振りな丼いっぱいのつけ汁。実を言うとこの「大勝軒」スタイルのつけめんは苦手だ。どう食べていいのかわからないのだ。ここ「弘前軒」のものはたぶんかつお節かさば節に鶏ガラベースのスープ。これがやや醤油辛い。でも飲めないほどではなく、麺に絡めるとなんとか一緒にすすり込めるのだ。このつけ汁はいい味わいだ。でも中野の「永楽」のつけめんならとても飲めないほどにスープは醤油辛くて、まさに「つけて食べるそば」なのだが、「大勝軒」スタイルだとこれが中途半端に感じる。スープの中になるとやチャーシューが刻んでゴトゴト入っているのもあまりいいとは思えない。だいたいつけめんとして食べてうまいスープが残ってしまうのだ。これを中野の「永楽」ではスープで割ってくれる。これがなんともうまい。これを「弘前軒」でもまねて欲しい。
 この店、清潔で造りからしてもとても馴染みやすいもの。しかもこの店の主は青森県弘前市生まれなのだろうか? 「弘前軒」という店名も素晴らしいし、ご夫婦なのかお客への対応も申し分ない。これだけでまた来てみたくなる。こんどはラーメンを食べてみたいのだ。
注/ボクは「ラーメンショップ」、「つけ麺屋」とか「ラーメン屋」とかいう意味不明の店名は大嫌いだ。ちゃんと自分なりに屋号をつけろよ、と言いたくなる
●この文章を書き終わってもう一度「さやぴぃのラーメンデータベース」を読んでみるとつけ汁が残ったらお願いするとスープで割ってくれるというのが書かれている。これはラーメン通だからなせる技なのか当日そんなことをしている人はいなかった

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「さやぴぃのラーメンデータベース」
http://www.geocities.jp/sayapie3838/database.htm

 愛知を旅していて、必ず見かけるものに「寿がきや」の麺類がある。生タイプ、乾麺タイプのみそ煮込みうどん。うどんの汁や、ラーメン、まず愛知県内のスーパーに入って「寿がきや」の食料品を見ないで出ることは不可能だろう?
 その「寿がきや」のものは生、乾麺タイプの「みそ煮込みうどん」を買って帰ってきた。乾麺タイプは少し躊躇したのだけれど、これまたスーパーで食料品を見るのが好きだという、うなたろう君が「学校から帰ってときどき食べるんです」という言葉に惹かれて5個も買ってきたのだ。1個100円というのもお手軽な旅の土産である。
 ちなみに、ぼうずコンニャクのお土産はご当地系スーパーで調達したいと思っているのだ! 大手スーパーに負けないでがんばって欲しいな土着のスーパーさん。
 さて、この乾麺タイプのみそ煮込みうどんの味がなかなかよろしい。同時に生麺の「みそ煮込みうどん 八丁味噌」と比べてもなかなかよくできている。乾麺、しかも粉末スープ(生の八丁みそを加えるとなおうまいという情報をいただいた)なのに愛知の豆味噌、その渋みがよく再現されているし、なにより麺のシコシコ感がいい。今回はネギを薬味に生卵を落とした。ネギは忘れても生卵は必須アイテムである。腹減りオヤジの寂しい午後に、しか〜し、うまいなコレ。
 恐るべし「名古屋の味」、恐るべし「寿がきや」である。
 最後につけ加えるに「台湾ラーメン」が名古屋ならではの味であるというのを知らなかった。市内で食べるのは無理としても、生麺タイプがスーパーにあったはずなのだ。次回は「台湾ラーメン」にトライするのだ。

写真は我が娘が作ってくれたもの。ラーメン丼はないだろう。我が娘、もっと教育しなければ

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寿がきや食品
http://www.sugakiya.co.jp/
●「お魚三昧日記」からやむおえず移動しました。コメントをいただいた方は申し訳ない

 八王子綜合卸売センター「平成食品」とともに豚ロース肉の「薩摩しょうゆ漬け」を作り始めたら、またまた新顔の鹿児島の甘い濃い口しょうゆがどこからともなく到来してきた。非常にエキセントリックなピンクのラベル、そこに「ヨシビシ」とある。鹿児島市の醸造元。これもなかなか甘味が強く、豚肉の味付けや刺身しょうゆとしても使えそうである。河辺町のヤマガミしょうゆと同じような味わいだが、どちらかというとこちらの味わいの方が複雑でうるさい。

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吉永醸造店 鹿児島市西田2丁目2-3 電話099-254-2663 
http://www.yoshibishi.com/

 日本橋室町は大正時代まで魚河岸のあったところ。その名残が所々に見られる。そんな路地裏にひっそりあるのが『吉そば』である。店構えはいたって地味。紺の暖簾が下がるだけ。
 ここのそばがなかなかうまい。天ぷらの種類も多く、今回はレンコン。立ち食いそばでレンコンの天ぷらというのも珍しく、また味もいいのでビックリ。そばはやや太目、それがさっぱりとした中にも甘味と旨味しょうゆの味わいが調和した汁ととても合っている。銀座、代々木など9店舗あるチェーン店ではあるが、これは小諸そばにはない魅力がある。こんどはうどんを食ってみよ!

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はすそば340円
http://www.kknoah.co.jp/yoshisoba/index.html

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 北千住駅には幾筋もの商店街が延びている。そのひとつ、千住3丁目、4丁目を隔てるやや寂しい商店街にあった昔ながらの食堂である「美冨士」。なんときれいな店名であろうか? この店名をつけた方に拍手を送りたい。でも意外に苗字が「美冨士」さんなのかもしれない。
 表に「中華・洋食」と大衆食堂ならではの暖簾を掲げている。遠藤哲夫さんの「大衆食堂の研究」からすると「いかがわしさ」に欠けるものの、カレーライス、オムライス、チキンライスの「一皿盛り」「一膳めし」の多い典型的な店であると思う。
 そこで注文したのがカレーライスである。きっと出てくるのは昔ならではのライスカレー、すなわち家庭的な素朴なものであろうと期待して、その通りのライスカレーがきた。ジャガイモ、大きめに切った玉ねぎ、東京なので豚肉。ラーメン、餃子など中華系もこんど食べてみたいと思いながら店を後にする。
 この「美冨士」遠藤哲夫さんの真似をしてボクが勝手に「残しておきたい店度」というのを作ったら★4で高得点となった。

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 市場にはときどき場違いなものを売っているときがある。まああまり売れなくて吹きだまってきたものもあるだろうし、また地味だが永遠と売れているもの。隠れたベストセラーというのもある。でもこれはないだろう? とビックリしたのがビンからペットに変身したコカ・コーラのドクターペッパーである。
 初めてお目にかかったのは上京してからだから1975年以降のこと。どうも西日本には売っていなくて東京と沖縄だけで売られてたらしい。同じクラスになぜかこればっかり飲むヤツがいたのだ。驚いたことに、その当時、お茶の水界隈にこれが売られていた。ソヤツ、「煙草をのむならゴロワーズ、炭酸ならドクターペッパー」なんて気取ったことを言っていたな。言っていることと外見がコイツくらい釣り合わないのも珍しい。つられて買っては見たものの一口飲んで持てあましてしまった。耐えられないのはサクランボのような、でも気持ち悪い香りである。
 そのドクターペッパーを30年振りに飲んだのだが、やはりこの香り、風味だけはダメなのだ。

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 最近、どうしてこんなに慌ただしいのやら市場通いから、午前中の魚貝類のデータ整理。気がつくと都心に出かける時間がどんどん押し迫ってきている。当然、お昼ご飯を食べる時間もないなんてことになってしまう。そんなときに立川駅途中下車で寄るのが「奥多摩そば」なのである。いつもここでおでんそば(ゆで卵)を注文するのだが、カウンターでうまそうにカレーをかき込んでいるのを見つけて初めて挑戦してみる。これがなんと380円なのである。店で作っているものなのかはわからないが、このいたってノーマルなカレーがうまいのである。
 豚なのか牛なのかわからない。どちらかというと牛肉に見えるもの、玉ねぎかな? よく煮込んだマイルドなカレー。それがたっぷりのご飯に、これまたたっぷりかかっている。つけ合わせの福神漬けも見事だ。もっと腹減りならそばなどとのセットもいい。
 カレーを食いながら、おばちゃんに「下りホームの店はなくなったの」と聞くと「来年4月に出来るのよ」という。これはうれしい情報である。

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 あまりの衝撃に値段を忘れてしまったが650円だったかな「中華料理 やまだ」のレバニラ炒めは。どうして衝撃を受けたかと言うとレバニラ炒めなのにニラがほとんど入っていなかったのだ。しかもレバも野菜も炒めたと言うより急激に温めただけといった味わい。ここで味のことをとやかく言っても始まらないが、この「やまだ」は今を去ること30年以上前に来たことのある同じ場所にあった中華料理の店そのものだろうか?
 それは忘れもしない2年生のとき授業を終えて坂道を駅に向かう。途中で仲間と待ち合わせをしていた喫茶店でコーヒーと水ばかりを飲んでやたらに腹が減って入ったのが、まさに丸善裏角の中華料理店だったのだ。注文したのがタンメンであったか野菜炒めであったか忘れたが、空腹感を忘れる味わいであった。
 当然、我ら仲間で以後この店に入ったというものは皆無なのである。だいたい我々がちょっと贅沢をするとしたら生協脇にあったラーメンの「ぴか一(文字を思い出せない)」「キッチンカロリー」などであり、普段は生協のカレーかうどんを食べるのが関の山であった。そんなときに思い切って入ったのがこの角の店なのだ。
 でも歳をとってある程度余裕が出来てもニラの入っていない「レバニラ炒め」はイヤだな。

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 先々週、都内某所で酒を飲んでいた。かなり酔っぱらって、しかもどんどん小腹がすいてくる。そして大腹がすくのに時間はかからなかったのだ。
「なにかお茶漬けとか、お握り(東京ではおむすびだけどボクは四国なので関係ないのだ)とかないの」
 と聞くと、
「ご飯がなくなっちゃったからね。うどんがあるから焼きうどんを作ろうか?」
 と言うことでお願いしたら、まったく予想外であったのだ。酔っぱらっていたからだろう。関東では「しょうゆ味」なんだぞ、という意識が消えていたんだろう。目の前に来たものを見てがっかり。食欲も失せたのである。
 あまりに残念であったので「焼きうどん」は子供の頃から「ソース味」でなければ食べる気になれない、と、今回、懐かしい「ソース味の焼きうどん」を作る。本来は加賀屋のお好み焼きソースで作りたいのだが切らしていて、今回は「イカリソース」。ビックリしたのはイカリソースはブルドッグに買い取られていたのだ。新聞などでは読んで知っていたのだが、今回ホームページを閲覧して改めて驚く。
 まず、魚肉ソーセージか竹輪、キャベツを炒める。そこに熱湯でほぐしたうどんを入れてよく炒める。そのうどんなどをフライパンに隅っこに寄せて、あいたところにソースを入れる。ここである程度ソース自体に熱を通してからうどんと絡めるのだ(これは絶対に守らなければならない鉄則。ソースを具やうどんに直接かけるとまずい)。
 これでビールを飲むのが、なんとも秋らしい味わいなのだ。できればコショウはわっせわっせと振ってほしい。

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寿美屋のゆでうどんはうまい

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寿美屋
http://www.sumiya-men.com/

 都心に出なくていい日、遅い昼飯を食べに、ちょっと出かけられるところにある。八王子ラーメンを出す有名店「みんみん」と同じ通りにあり、それなりに店の前に駐車するクルマが多く、それにひかれて一度入ってみたかったところ。
 店の外観はとても好ましいもの。なんだかうまそうなラーメンが出てきそうな、期待が高まる。店に入っても飾り気がなく、清潔感が感じられる。入ると左にカウンター、右にテーブル席。昼長けた時間なので客はボクひとり。店のそこここで目に付くのは鶏手羽やチャーシュー、またお持ち帰りも出来るメンマなど。
 テーブルに座ってほどなく出てきたのは八王子日野に多い「八王子ラーメン」ではなく豚骨ベースの普通のラーメン。スープはしょうゆ味で、めんま、チャーシュー、のり。これになるとなど練り物がないのは、『豚珍軒』で「豚」を主役にしているためだろう。うまそうなチャーシューの上にオマケでチャーシューのかたまりが置かれている。スープの味わいは旨味が薄くて物足りない。麺はいたって普通のもの。それでは丼でいちばん目立つチャーシューを食べると、これはなかなかいけます。
 この店の弱点は明らかにスープ。豚骨なのか鶏ガラなのか、わからないほどに旨味に欠ける。全体のバランスからしてもの足りない。

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東京都日野市多摩平3-31-13
もっと詳しい情報は「さやぴぃのらーめんデータベース」へ
http://www.geocities.jp/sayapie3838/database.htm

 あんかけスパゲッティというと「ヨコイ」だと思いこんでいたら、愛知県豊川市のスーパー「かねだい」でもう一種類見つけた。それがヤマニフーズのもの。そして実際に食べてみたら「ヨコイ」のものとそっくりである。これは「ヨコイ」が先なのか、ヤマニフーズが先なのか、あんかけスパゲッティの元祖はどちらなのかわからなくなる。
 値段も「ヨコイ」とほとんど同じ。また「チャオ」というのが名古屋らしい響きに感じられるのはどうしてだろう?
 味わいは「ヨコイ」のものとあまり変わらない。トマト味といっても酸味は薄く、和風出汁のような旨味が感じられる。このあんの味わいの茫洋としたところ、なんとも表現のしようがない。我が家族もそうであるが明確なトマトソースの酸味を予想すると失望するが、「未知の味覚に挑戦するのだ」と思うと意外に感動できるかも。ただしワンパックが多すぎて少々持てあます。
 さて愛知県でのあんかけスパゲッティ、もっともっと店も製品も多いのかも?

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ヤマニフーズ
http://bb.bidders.co.jp/yamani-f/

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