チキンラーメンは1958年に安藤百福が発明し発売した。当初は箱に入っていたらしいのだが、この箱入チキンラーメンの記憶はない。また日清食品のサイトから見る限り、どうも昭和42(1967年)のものにある子供の絵に記憶があり、初めて食べたのはこの時期かも知れない。とすると小学5年生だったことになる。ただどうも袋の記憶よりもかなり前に初めてのチキンラーメンを作った記憶がある。貞光という町に初めてスーパーが出来たのはいつ頃のことだろう。そのときは町中の人が、そのマルサンというスーパーに集まった感がある。ボクも兄や姉に連れられてお小遣いをもらっていったのだ。そのときに子供の間で話題になったのが白いマジックというもの。当時はマジックというと「黒」という概念があって、なぜなんだかそれが欲しくてたまらなかった。そのスーパーの開店と時期を同じくしていろんなお菓子やインスタント食品がボクたちの暮らしになだれ込んできた。
●マジックインキが寺西化学工業所から発売されたのが1953年のこと
ということでチキンラーメンを初めて食べたのは何時の日か? それは曖昧なのだけれど、その光景ははっきり記憶している。誰が買ってきたのだろう? チキンラーメンの袋があり、作り方を兄が読んでいる(この光景は今での我が家で繰り返されている)。袋の説明には丼に麺を入れて、お湯を注ぐ、上から皿などでフタをして3分待つとあったはず。この記憶からすると明らかに小学校の低学年、兄は5〜6年生の頃、1965年以前となる。
ここで「ラーメン」の話。私が初めてラーメンを食べたのは生まれ育った貞光町南町の食堂だった。片田舎なのに葉たばこの集散地であり、うだつの上がる家並み、商店街が形成されていた貞光町。その一部落であった南町という小さな部落でも食堂は3軒あり、「田岡食堂」と、確か「みどり屋」という屋号の食堂。あとの一軒はお好み焼き屋であったようなのだが食堂も兼ねていた。この屋号が思い出せない。たぶん、「みどり家」がラーメンを初めて食べた店である。ここで初めてコショウの辛さを体験した気がする。そんな鄙には珍しいラーメンが家庭でも楽しめる。これは子供心にも事件だったはず。
我が子供のときに過ごした家の食堂は古く、まさに江戸時代の様を残していた。おおよそ10畳くらいの空間の土間。板間があり、その板間から畳の食事をとる空間がある。そして土間の南に水を扱える流し。味噌など入れる納戸がある。そして北側にはレンガで組んだ土台上にガス台。ガスはいつの頃からあったのだろう。家の外には九度があり、早朝のお湯や蒸しものはそこでやっていたのだ。
そのガス台でお湯を沸かしている。丼を探して兄とチキンラーメンを入れる。困ったのはフタである。チキンラーメンの説明書には皿などでフタをしろと書いてある。でもちょうどいい皿がないのだ。余談だがこの時代にはラップなんてものはなかった。我が家にあった皿は総て輪花であり縁がでこぼこしている。丼にチキンラーメンの揚げた麺のかたまりを入れて、熱湯を注いでも隣花の皿を乗せた。でもこれだとしっかりフタにならない。また子供なので沸騰していたのかも疑わしい。
結局出来上がったものは麺がもどっていない上に、お湯の量も多すぎたのだろう。とても食べられたものではなかった。以後、ずーっと「チキンラーメン=まずい」と思いこんでしまって食べなかった。チキンラーメンを食べないでいたのにはエースコックのワンタン麺(1963年発売)や明星食品のチャルメラ(1966年)などが発売されたのも大きな原因。これらのインスタントラーメンは鍋で作るので失敗することがまずない上に子供心にもうまいものだった。
チキンラーメンを初めて食べて、失敗したせいかとてもまずくて、敬遠していつの間にか40年近くたっている。そんな昨年、娘がチキンラーメンを買ってきた。作って食べているので、ついでに作ってもらった。そして食べたのだが、結局個人的にはこの味つけが嫌いだということを気づくだけとなった。もうたぶん二度と食べようとは思わないだろう?
http://www.chikinramen.com/island.html
ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑へ
http://www.zukan-bouz.com/
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茅野市米原田製麺『お手軽ラーメン』『お手軽そば』