香川県琴平から乗ったディーゼルカーは真っ青な青空の下、吉野川を渡る。
池田にダムが出来てから、吉野川の水はよどんで、あまりきれいとは言えない。
でも、とにかく吉野川を渡ると、もうすぐ池田の町だ。
昔、徳島県吉野川沿い、西部から上京するには、徳島本線で池田駅まで出て、土讃線に乗り換え、高松に向かう。
高松から、宇高連絡船、宇野から宇野線で岡山、岡山から新幹線に乗るというのが一般的だった。
考えてみると朝方8時か9時過ぎに出て、東京には夕方に到着するという、一日がかりの上京だったわけだ。
これは、もうかれこれ30年も前の話で、最近では主に空路、バスに取って代わられているので、こんな迂遠な経路は誰もしらないだろう。
池田駅での乗り替え時間は短く、普通ただただ大急ぎで乗り替えるだけ。
それがなんらかの原因で、土讃線特急が遅れ、間を持てあまして、気がつくと「立ち食いそば」の店があり、同じく間を持てあました乗り替え客の行列ができていた。
何気なく並んで、何気なくそばを食べた。食べてびっくりしたのだ。
なぜ、そばを食べることになったのかが思い出せない。行列をして食べている人たちが、みなそばを注文していたためではないかと思う。
同じく県西部の貞光町では、そばを食べることは希も希なこと。
だいたい、そば屋はなく、食堂のことを“うどん屋”というくらい。
ここで池田は、うどん食文化圏ではなく、そば食文化圏なのだということに気がつくほど、食に感心がなかったのは残念至極。
池田は祖谷地方の入り口にあたる。祖谷は四国第二の山、剣山へと西から回り込んで続く。
吉野川をさかのぼり池田から祖谷口に入ると急速に山岳地帯となり、支流の祖谷川沿いともなると断崖絶壁の続く秘境となる。
山にしがみつくように耕された畑では、米も麦もとれず、里芋とそばが主流となる。
当然、池田から祖谷にかけては四国では希な、そば食文化圏となるわけだ。
さて、30年以上前に食べた、そばを思い起こそう。
まずは汁は煮干し味、徳島県で一般的なもので、うどんと共通するもの。
そこにやや太めのそばがあり、青ネギに赤い蒲鉾(赤板という。徳島県では蒲鉾のことを「板つけ」という)。
汁をすすり、そばを箸でつまもうとした。それほど乱暴につまんだわけでもないのに、そばがもろくも折れた。
なんどつまんでも折れる、折れる。こわごわとやっと口に放り込むと、そばの強い香りがした。
これこそは生家でよく食べていた、そばがきの味そのものだった。
いつの間にか、丼のなかは、まるで汁の多い、そばがきのようになっている。
この汁の多い、そばがきの味がするもの、そば好きならいざ知らず、うどん好きには、とても耐えられなかったのだ。
東京で暮らす内に、いつの間にか、そばの味になじみ、ときどき池田駅でそばをすするようになったが、時代は鉄路から空路に代わって、長い年月が流れてしまった。
今回の池田駅乗り換えは、間違いなく20年以上の空白を経ている。
土讃線特急を降りる乗客は少なかった。昔は徳島本線と連絡する特急の乗客は多く、池田で下りる人もホームが混雑するほどに多かったものだ。
閑散としたホームで立ち食いそばを探すが見あたらない。どうやら今はなくなってしまったようだ。
仕方なく駅を出ると、駅に隣接して食堂と喫茶店が合わさったようなものがある。
何気なく入ると、そこに「祖谷そば」というのがあり、もしかしてという思いで注文してみる。
出てきたものはまごうことなき、池田駅のそば、そして追加したのが「きつねずし(いなりずし)」。
徳島ではうどん、もしくはそばには「ばらずし」か「きつねずし」がつきもの。「きつねずし」は西日本の基本である頭巾型だ。
久しぶりに食べる池田のそばは、そば粉100パーセントだから、やっぱり折れる。
ポロポロ食べづらいが、香りが高く、なかなかうまいではないか。
20年ぶりに食べて、そばには違和感がなくなっている。むしろいりこだしと、そばの相性が悪いのが気になる。
ただただ懐かしさから、池田のそばを堪能する。
次に食べる機会ってあるんだろうか? その確立は非常に低い。
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