一頃、八王子のマグロ屋と一緒に築地に通っていた時期があった。競りの光景を見ていたのではなく値段に感心があったのである。だからマグロを見て回り値踏みし終わって、競りが始まるまでの小一時間、場内で食事をとっていた。そのときもっとも頻繁に食べていたのが「喜久」のタンメンである。
この店に初めて入ったのは、そんなに古い話ではない。たしか10年ほど前に相対取引を見るために4時頃に、築地に行ったのである。エビ、ウニ、貝類などの売り場を歩き、荷物を積み込むとさすがに腹も減るし、疲れてくる。そのときの市場関係者が「朝飯食べましょう」と連れて行ってくれたのが「喜久」であった。
ボクはトンカツで大盛りご飯が食べたい気分だったが、彼が注文したのがタンメン。「そうか、この店ではタンメンなのか」と素直な性格なので右へならえをして同じものにする。これがうまかったのである。寒い時期だし、腹が減っていたというのもあるが、食い始めから、最後のスープをすすりこむまでズーっとうまいうまいで、時間にして5分ほどだろう。あまりのあっけなさに「大盛りにすればよかった」と後悔しきり。それ以来、早朝の築地では「喜久」のタンメンということに決めてしまっていた。
それから早朝に築地場内に行くこともなくなって久しい。「喜久」のタンメンも久しぶりだなと店の表までくると大和寿司の行列が長く、店の前ではその行列に加わるべきか悩んでいる風のカップルがいる。仕方なく今回は裏側から入って、どうした加減なのか「ラーメン」を注文してしまった。この店でラーメンを食べるのは初めてなのだ。
築地場内の関連棟は細長い建物が川の字形に並ぶ。この細長い建物に長屋風に並ぶ飲食店では「一区画で入り口を決め、奥に厨房を置く、奥行きがなく店の左右が広いタイプ」と、「入り口を建物の両面にとり、細長くカウンターで仕切っている、奥が深く客席左右狭苦しいタイプ」がある。「喜久」は細長カウンタータイプの典型的なもの。建物のどちらからでも入ることが出来て、カウンターに座る。席に着くと、その後ろを通る人は壁にへばりつくように、また飯食う人は前のめりで通路を開ける、そんな努力が必要なくらいに店は狭苦しい。
注文すると待つほどもなく出来上がる。この素早さが築地場内のよさなのである。
目の前にして驚いたのがラーメンなのにタンメンと同じ太い麺であるということ。スープは醤油味、チャーシュー、メンマ、たっぷり散らしこんだネギ。いかにもあっさりして軽そうだがスープにはしっかり鶏ガラの風味があるし、醤油味ながら塩分濃度もしっかり高い、これが太く旨味のある麺と調和して、味に余韻がある。この店ではタンメンと決めてしまっていたのを後悔するほどにボク好みの味である。これなら軽く2杯は食べられそうだ。しかも2杯食べても飽きがこないのではないか?
久しぶりに築地場内で「当たりくじ」を引いた気分に浸っていると、なにやら店の前が騒がしい。暖簾の隙間からこちらを覗く集団がいて、これが最近では築地場内名物となってしまっている外国人観光客である。どうやら寿司屋に並ぶか、ここでラーメンを食べるかを決めかねているらしい。これに気が付いた「喜久」のお姉さん、「ラーメンはヌードルだっけね」。ドヤドヤと入ってきた団体さんに「ラーメンヌードル食べる。食べるの? OK?」なんて聞いている。それに常連さんが「ラーメンはアメリカでもラーメンじゃないの」なんて、これも不思議な光景であるな。