魚を食べさせる、という意味合いで理想的なものが「魚屋でありながら食堂」というもの。
『寺喜屋』は今では魚屋を廃業しているが、そのよさが残っている。
観光的な地域から外れているために、一見さんという言い方はおかしいのだけど、たぶん観光客ではなく、実質的な「うまいご飯」を食べたくて来る人が多いのもいい。
旅に出ていると、ついついのぞいてしまうのが魚屋の店頭だ。
そこに見事な魚があって、「これ食べたいな」と思ったときに、すぐに「奥で食べられる」。
刺身、煮つけ、塩焼きに汁とご飯があれば言うことなし。
ちょっと昼間から羽目を外して熱燗などをいっぱいやれるとうれしい。
この店頭から奥までの時間や距離(長さ)が短いほどいい。
ときどき観光地の魚屋で食堂を併設しているところがある。
店先で魚を見ていて、奥に入ったら立派な写真入りの品書きが置かれていて、そこにお座なりの定食が並んでいて心底がっかりすることがある。
それだけで店を飛び出したくなって、不満を無理に抑えるだけで食欲が失せてしまう。
きっとそういった店の経営者は、魚屋が持つ食堂の利点・意味がわかっていないのだ。
話はそれるけどボクが今とりくんでいるのが「島根県の魚をいかに売るか」ということ。
島根県には国内でも有数の観光地が数カ所あり、しかも水産県でもある。
例えば松江市内には素晴らしい魚屋が多々あるのだけど、観光客には店先の見事な魚が遠く遠く感じられるのだ。
店先の魚を遠く感じさせるのは、旅館、料理店、居酒屋(当然一部の店はのぞく)がおざなりの料理を出しているから、目の前の魚にほれこんでいないためだし、機動性(季節ごとの臨機応変さ)を欠いているからだ。
そこにあるのは地の魚のなれの果てであり、言うなればカスだ。
地場で水揚げされた魚が近く近く感じられる店があったら、どれほどに水産県島根を宣伝できるだろう。
また水産物の消費量も増えるはずだ。
閑話休題。
『寺喜屋』は魚屋をやめてしまっている。
では金沢に揚がる魚からして店で出す料理が遠く感じるかというと“否”。
むしろ近く感じられる。
早朝から中央市場を歩いている、そのままの魚がここにあって、しかも金沢の伝統的な料理が存在する。
中央市場には地元の方だけではなく、他の地方からやってきている人も多く、市内で地元ならではの料理が食べられないと言う。
要するに華美にすぎ、質が伴わないものが多すぎるのだろう。
そこへいくと、『寺喜屋』の料理には飾りがなく、しかも地魚があって、味がいい。
とかく観光地には嘘が多い。
法外な料金に見合わぬ料理が膨大に存在して、ボクなど「だから観光地は嫌いだ」と思うのだけど、「『寺喜屋』で食べた」がために金沢の印象がすこぶるよくなっていったのだ。
寺喜屋 石川県金沢市野町犀川大橋詰
ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑(いちばぎょかいるいずかん)へ
http://www.zukan-bouz.com/
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