徳島『加賀屋醤油』お好み焼きソース

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 徳島ではどの市町村でも子供相手のお好み焼き屋さんがあると思う。1960年代などは街角街角にお好み焼き屋があり、子供には暖簾に書かれた文字が読めなくて「おぬやき」って書いて「お好み焼き」って言うの変だなと思っていた。夏はお好み焼きをやめてかき氷を出したり、そう言えばお好み焼き屋には必ずおでんもあった。

 私は徳島県美馬郡貞光町という辺鄙な町に生まれた。この町、不思議なことに農業というのはほとんどなく商店街だけの町。この貞光町というのは後に太田、端山などが合併したが、ここでは狭い意味の町のこと。本来は葉煙草、材木、牛などの集散地としての小さな地域でしかなかった。子供の頃などまだ我が家の前の端山、一宇村からの道を馬が材木をひいてくるのを見ている。(貞光町は2005年3月より現つるぎ町となった。貞光、太田、小島、半田、端山、一宇が合併して広大な町域となっている)

 子供の頃、我が町には部落ごとにお好み焼き屋があった。そこに必ずあったのがマンガ本。お好み焼き屋は子供達の社交場でもあったのだ。ここで初めて触れた「暗闇五段(字が間違っているかも)」、「オレはスカタン(これも)」なんて懐かしい。漫画本を読んでいる間にお好み焼きが焼き上がる。確か焼くのは店の人の役割、自分で焼く店の記憶はない。
 そこで使っていたお好み焼きソースは間違いなく「イチミツボシ 加賀屋醤油」のものだったと思う。当時は一升ビン。これを鉄板脇のソース入れにとくとくと注ぐ。そう言えば東浦の「新田」という店。南町の「みどり屋」なんてもうないんだろうな? また当時お好み焼きと呼ばれていたけれども、屋台をひっぱって、おじいさんが焼いて売っていたものがあった。今思うにこれは一銭洋食というものではなかったろうか? 小麦粉の薄い生地を鉄板に薄く伸ばす、そこにキャベツ、天かすなどをのせて焼き上がったらソースを塗り、くるっと巻いて紙に包んでくれる。あのおじいさん、もう生きているわけがない。

 さて大阪など関西でもそうだが、夕食に家庭でお好み焼きということがある。面白いのは昔の食卓というのは丸く真ん中が開いていた、そこにガス台を置いて鍋物やお好み焼き、ホルモンなどを焼いて食べる。この穴あきのちゃぶ台は1966年に大阪ガスが売りだしたものである。(『大阪あほ文化学』読売新聞本社 講談社+α新書)
 丸いテーブルに家族が揃って、まず小麦粉を練り、具は四国では牛肉とキャベツだけだったと思う。他には天かすかな。父などはゆるりと刺身を食べて酒を飲み、ときたまお好み焼きをつまむ。当時貴重というか高かった卵は確かひとり1個と決められていた。真正面のテレビ画面には「三バカトリオ」。懐かしい。
 そこに当然のごとく「お好み焼きソース」が置かれていて、これが他の地域よりも甘い。広島の「おたふくソース」よりも甘く、まろやかである。これが徳島のソースの特徴。たぶん貞光町では総て「イチミツボシ 加賀屋」のものであるはず。我が家など醤油も「加賀屋」だった。
 この加賀屋(かがや)の「お好み焼きソース」であるが今、我が家にはなくてはならないものとなっている。ボクはブルドッグでも下町のユニオンソースでもなんでもいいのだが、子供達はカツ、コロッケ、はたまたハンバーグにもこれをかける。

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加賀屋醤油
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このページは、管理人が2006年8月 9日 11:07に書いたブログ記事です。

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