2006年9月17日アーカイブ

 下町で見かけるものに「洋食・中華」の暖簾、カンバンをかかげた食堂があるのは前回書いた。すなわち食堂という形式が生まれたのは、どうも大正期であったようだ。そして昭和から高度成長期までに絶頂期を迎え、今や衰退期に入っている。この「食堂」が誕生するには明治期の食の混乱、食文化の撹拌・混血がどうしても必要であった。
 江戸末期の開国、明治維新によってフランス料理やイギリスなどのパン、また牛乳(彼の伊藤左千夫など東京駅周辺で酪農を営んでいたのだ)など、欧米の食文化が一度期に流れ込んできた。これが徐々に都市部に浸透してきて、また日本人の好みに応じて変化をする。ここにウスターソースが国産化されるまでに普及。カレーや豚カツなどが生まれた。また中華料理は1894年の日清戦争以後「支那料理」と呼ばれ、徐々に我が国に普及し、これが日本製中華料理である「ラーメン」や炒め物などを生む。これら外来のメニューと混血型メニューに、ついでに和食であるそばうどんまで取り込んだのが「食堂」というものである。
 現存する「食堂」は成り立ちから2系統に分かれると思っている。明治の洋食、支那料理から派生してデパートの大食堂、そして神田須田町に誕生した多様のメニューを売り物にした「須田町食堂」などから生まれたタイプ1(混血型)、江戸時代の「煮売り屋」から、ほそぼそと続き戦後焼け跡の闇市、または高度成長期に自然に生まれてきたタイプ2(和食型)である。タイプ2に関しては別項を立てなければならないが、このタイプ1の正統に近いのが「中華・洋食」の食堂なのだ。タイプ1の最大の特徴が食文化の多国籍混血化である。これを説明するに清澄白河の「ことぶき本店」のメニューを見て考えてみる。

 食堂形式のメニューで最初に必須的にあるものが単品満足型メニューである。洋食系ではカレー(インド・イギリス起源のカレーにご飯)、オムライス(オムレツにご飯)、チキンライス(鶏肉、ケチャップにご飯)があり中華系にもラーメン(鶏ガラに和のしょうゆと煮干しなどを加える)、炒飯(本来は「やき飯」だった)の同レベルのメニューが存在する。その単品系に丼ものが悠然と存在していてカツ丼は洋食系、中華丼は中華系、親子丼・玉子丼は単純に和系に見えて明治の食の混乱期に生まれた突然変異型和系にあたる。最後の突然変異型和系の嚆矢は「牛鍋」もしくは「すき焼き」なのであるが、これも別項を立てる。
 実に食堂のメニューにあってこの単品満足型メニューがいかに重要かつ食堂の最大の検索項目であるかはわかって頂けるだろうか? これらを生み育ててきたのは明らかにタイプ1型食堂である。
 これら単品満足型メニューからすると他の単品組み合わせ型メニューは明らかに進化していない。もしくは原始的な形態であるのがわかる。例えば豚カツは本来の「コートレット」もしくは「フライ」そのままであるし、洋食メニューの多くはこの「フライ」の系統である。ポークソテー、オムレツなどは変異すらしていないのではないか? 中華の炒め物、シュウマイも同様である。すなわち単品組み合わせ型メニューはだけではタイプ1型食堂の本質は語れないということになる。
 すなわちタイプ1型の食堂は明治から昭和にかけて固有な、また歴史的な役割の担ってきたのだ。
 さて、なぜにここまで食堂の系譜、成り立ち、固有の食文化であるかを述べてきたかというと、今やこれが絶滅の危機に面しているからだ。どうも多くの人たちが食堂の固有性を認識していないのではないか、例えば食堂のカレーは専門店のカレーとは違う「カレーライス」であるし、チキンライスにラーメンという取り合わせの妙も知らないヤカラが多いようである。鳥類のトキ、魚類のミヤコタナゴの希少性、また保護の緊急性を問われているが、この食堂の絶滅回避も我が国の重要な案件ではないか? ぼうずコンニャクは真剣に考えているのだ。

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半蔵門線清澄白河駅近く「ことぶき本店」

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 日野市は人口こそ17万人と少ないものの、大企業の研究所や工場が多く日本でも中規模の市なのである。それなのにYAHOO電話帳で調べる限り「食堂」というものは16軒しかない。ラーメン店28、ファミリーレストラン20よりも少ない。また驚いたことにスナック75、居酒屋69と言うのも不思議な話である。これはどうも飲食店の専門店化が進んでいるせいだと思われるのだ。
 まあボクは統計学というものに疎いので数字を上げても仕方がない。でも大好きな食堂が16軒ならがんばれば全部回れそうでうれしくもあるのだ。
 そして肥満防止(防止ではなく、これ以上太らないため)のサイクリングで見つけたのが『三福食堂』なのである。甲州街道から日野台に向かっての道路は広い割に静かなだ。店の前にサンプルを入れる陳列台。そこには人形や置物が所狭しと置かれている。素人考えながら、せっかくなのだから品書きでも立てて置いたらいいのに、と思ってしまう。
 やっと見つけて、そこには営業中の札が下がっている。嬉しくなってさっそく自転車を止めると店の脇にいた老夫婦が慌てて店内に入る。店内は奥に座敷のようなもの。手前にテーブルがあり、いたって不思議な配列になっている。品書きは多く、丼物はすべて揃っているし、カレーもある。定食に「タイカス(アラスカメヌケの粕漬け)」とあるのも古い食堂の特徴なのだ。またこの店に野菜炒めなど中華の料理はなく、洋食のオムライスもない。チャーハンとカレーは洋食と中華というのではなく、食堂として必須だから置いてあるといった感じがする。この品書きを見て、どうもここの店主はいわゆる食堂で修業したのではなく、日野市ならではの企業脱サラ組ではないのか? と勝手に思ってしまった。『市場寿司 たか』の渡辺さんによると日野台、大坂上などには日野自動車に勤めていた人で食堂や居酒屋を始めたという店が少なくないという。
 さっき店の脇でいた老人が注文を聞くと厨房に入った。その仕切には皿が並び、作り置いた物を選ぶことも出来る。残念ながら午後も遅い。今回はラーメン550円に決める。
 火を落としてしまっていたようでなかなか出来上がってこない。やっと来たのが鶏ガラ醤油味のスープ、チャーシュー、メンマ、練り製品のなるとのトッピング、非常にオーソドックスな浅草来々軒もかくやというもの。スープは明らかに鶏ガラだろうが、そこに微かに魚のイノシン酸の旨味がある。味わいが軽いのは味の素などを適度に使っているためだろう。とても好ましいスープですするとジワリと旨味を感じる。麺は細めの縮れ麺。チャーシューが軟らかくてうまい。ボクとしては肩の力が抜けた普段着のこんなラーメンがとても食べたくなる時がある。どうもこの手のラーメンに最近とても惹かれるのだが、これは年のせいだろうか?
 店の感じもラーメンの味わいもとても好ましい『三福食堂』。こんどは定食を食べに来るのだ。

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三福食堂 東京都日野市日野台4丁目11-8

 亀戸無駄歩きは驟雨沛然、そして曇り空、そして驟雨沛然、まったく全身ずぶ濡れになってしまって、もう歩けないと思ったら踏切があった。そして遮断機が下りて左手から来たのが曳舟行き。踏切を渡り、もうこれ以上歩いてもなにもないらしいと、振り返ったところに立ち食いそば屋を発見した。
 しかし、その店構えのはなはだしく殺風景なこと。真冬にここを通ったら思わず避けて通りたくなるようではないか? そして引き戸を開けると、くの字型のカウンター、奥は座敷、そしてカウンターの中にはとても愛想のいいオバハンが立っていた。傘を置くと、「まだ雨が降っていますか?」と聞いてくる。その声がなんとも軟らかい。ここで天ぷらそばをお願いする。ゆったりした動作で出来上がった天ぷらそば、汁の色合いは黒く、かき揚げは自家製なのか市販のものなのかはわからない。そしてそばはやや粉っぽく、つゆは濃くて旨味に欠ける。いかにも立ち食いですといったものだが、まずいわけではない。

「ここはどうして水神そばって言うんですか」
「あれ、そこに水神様、お客さん、ここは初めてですか」
「そうなんです。亀戸駅から迷ってこちらに来てしまって」
「そこに駅があるんですが駅名も水神って言うんですよ」

 そばの脇に置かれたキュウリの漬物がうまい。
「これは私が作ったんです」
「うまいですね」

 平凡なそばだが、この5分ほどの時間がよかったのである。外に出ると雨はあがっていた。

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 2005年9月に新潟に行った。しかも日帰りで行ったのである。その上、ぼうずコンニャクの旅は忙しくて、全開で動き回るのだ。いっさいの行楽気分はなく、あるのは探求心だけである。そんな新潟の旅の帰り道に立ち寄ったのが信濃大町市アップルランドというスーパー。このスーパー、なかなか凄い。私、へそ曲がりオヤジが見ても凄いのだからいい店舗としかいいようがない。「こんな店舗を作るやつあーやるじゃネーか」と感心しながら、帰宅した後の算段をする。夕食をどこかで食べるために熟睡している子供達を起こすよりも、食べ物を買って帰った方がいい。
 そこで見つけたのがこのラーメンとソバ。カップに麺と具、そしてスープが入っている。すなわち慌ただしくハードな日に食器も汚さないでそれこそ「お手軽」に食べられる。そして、このそばもラーメンもうまかったのだ。カップに麺を入れて熱湯を注ぐ。そして湯を切り、こんどは液体スープを入れてまた熱湯を注ぎ具を入れて出来上がり。この間3分もかからない。それでいて、充分にうまい。子供なんか「すっげえうまい」なんて過剰に感激している。本当にお手軽で味がいい。とてもお湯をかけるだけとは思えない。
 このうまさはどうも味造りのセンスのあるメーカーによると思われる。長野県茅野市の『原田製麺』えらい。

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原田製麺 長野県茅野市米沢植原田36 フリー0120-27-2442
『お手軽そば』239円、『お手軽ラーメン』281円(2005年)

 チキンラーメンは1958年に安藤百福が発明し発売した。当初は箱に入っていたらしいのだが、この箱入チキンラーメンの記憶はない。また日清食品のサイトから見る限り、どうも昭和42(1967年)のものにある子供の絵に記憶があり、初めて食べたのはこの時期かも知れない。とすると小学5年生だったことになる。ただどうも袋の記憶よりもかなり前に初めてのチキンラーメンを作った記憶がある。貞光という町に初めてスーパーが出来たのはいつ頃のことだろう。そのときは町中の人が、そのマルサンというスーパーに集まった感がある。ボクも兄や姉に連れられてお小遣いをもらっていったのだ。そのときに子供の間で話題になったのが白いマジックというもの。当時はマジックというと「黒」という概念があって、なぜなんだかそれが欲しくてたまらなかった。そのスーパーの開店と時期を同じくしていろんなお菓子やインスタント食品がボクたちの暮らしになだれ込んできた。
●マジックインキが寺西化学工業所から発売されたのが1953年のこと

 ということでチキンラーメンを初めて食べたのは何時の日か? それは曖昧なのだけれど、その光景ははっきり記憶している。誰が買ってきたのだろう? チキンラーメンの袋があり、作り方を兄が読んでいる(この光景は今での我が家で繰り返されている)。袋の説明には丼に麺を入れて、お湯を注ぐ、上から皿などでフタをして3分待つとあったはず。この記憶からすると明らかに小学校の低学年、兄は5〜6年生の頃、1965年以前となる。

 ここで「ラーメン」の話。私が初めてラーメンを食べたのは生まれ育った貞光町南町の食堂だった。片田舎なのに葉たばこの集散地であり、うだつの上がる家並み、商店街が形成されていた貞光町。その一部落であった南町という小さな部落でも食堂は3軒あり、「田岡食堂」と、確か「みどり屋」という屋号の食堂。あとの一軒はお好み焼き屋であったようなのだが食堂も兼ねていた。この屋号が思い出せない。たぶん、「みどり家」がラーメンを初めて食べた店である。ここで初めてコショウの辛さを体験した気がする。そんな鄙には珍しいラーメンが家庭でも楽しめる。これは子供心にも事件だったはず。

 我が子供のときに過ごした家の食堂は古く、まさに江戸時代の様を残していた。おおよそ10畳くらいの空間の土間。板間があり、その板間から畳の食事をとる空間がある。そして土間の南に水を扱える流し。味噌など入れる納戸がある。そして北側にはレンガで組んだ土台上にガス台。ガスはいつの頃からあったのだろう。家の外には九度があり、早朝のお湯や蒸しものはそこでやっていたのだ。
 そのガス台でお湯を沸かしている。丼を探して兄とチキンラーメンを入れる。困ったのはフタである。チキンラーメンの説明書には皿などでフタをしろと書いてある。でもちょうどいい皿がないのだ。余談だがこの時代にはラップなんてものはなかった。我が家にあった皿は総て輪花であり縁がでこぼこしている。丼にチキンラーメンの揚げた麺のかたまりを入れて、熱湯を注いでも隣花の皿を乗せた。でもこれだとしっかりフタにならない。また子供なので沸騰していたのかも疑わしい。
 結局出来上がったものは麺がもどっていない上に、お湯の量も多すぎたのだろう。とても食べられたものではなかった。以後、ずーっと「チキンラーメン=まずい」と思いこんでしまって食べなかった。チキンラーメンを食べないでいたのにはエースコックのワンタン麺(1963年発売)や明星食品のチャルメラ(1966年)などが発売されたのも大きな原因。これらのインスタントラーメンは鍋で作るので失敗することがまずない上に子供心にもうまいものだった。

 チキンラーメンを初めて食べて、失敗したせいかとてもまずくて、敬遠していつの間にか40年近くたっている。そんな昨年、娘がチキンラーメンを買ってきた。作って食べているので、ついでに作ってもらった。そして食べたのだが、結局個人的にはこの味つけが嫌いだということを気づくだけとなった。もうたぶん二度と食べようとは思わないだろう?

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http://www.chikinramen.com/island.html

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