地下鉄浅草駅を松屋デパート口から出る。面白いことに、浅草は建物が変わっても道行く人は、どこまでも浅草らしい、どこかあか抜けないのだ。馬道通に出るといきなり不思議な格好の演歌歌手が自身のCDを露店販売している。襷がけに「雪美さくら」とある。
こんな光景も浅草には似合っている。
馬道通を北上する。すでに4時を回っており、夕暮れは近い。今回の目的は吉原大門跡を見るため。できれば、このまま三ノ輪橋、樋口一葉の竜泉も見て回りたいが、難しそうだ。
馬道を北上、ほどなく浅草寺二天門を左に見る。馬道通とはいっても道幅は広く、左右はビルに挟まれて歩いていても楽しくも何ともない。
さっきから何台も観光バスが北に、そして次の四つ角を左折していく。また逆に右折してきて南下していく。どうも浅草寺裏手に観光バスの駐車場がある模様だ。
この四つ角の東西に言問通、とするとこの味気ない道路の東側が花川戸であったわけだ。「花川戸助六」しか思い浮かばない知識の貧困さに我ながら反省しなければ。ちなみに「助六」という野暮ったい名前が歌舞伎の世界で、言うなればヒーローとなったのは、延宝初年(1673年)に万屋助六という実在の人物が、京都島原の遊女、これまた実在の揚巻と心中した事件から取ったものだという。どうして京都から花川戸に場所を移してきたのか、歌舞伎の世界は奥が深い。(『歌舞伎十八番』戸板康二 中公文庫)また歌舞伎、「助六由縁江戸桜」で花川戸に住む助六が揚巻を尋ねるにしても、ほんのねきの距離だったという設定にもなるわけだ。
言問通りの角に鬘屋がある。これは浅草らしい。言問通りを超えると浅草三丁目。通りを渡ると現在の浅草六丁目であるが、本来の猿若町。ここは天保の改革で江戸三座が移転してきたところ。遠山金四郎が歴史に残るのは江戸三座を廃止しないで、浅草に移したことによる。それを、「浅草六丁目」なんてわけのわからん町名にしたやつは誰だ「おろかもの」、知的な頭みそゼロではないか? 出来るだけ早く旧町名を復活して欲しい。
浅草四丁目、交差点の角に「長崎ちゃんぽん ハイラル」というのがある。こぢんまりした店舗で絵になるのだけれど「うまそうな」気配が感じられない。お昼抜きで歩いているので、少しだけ心が動かされたが、ときには自分の感を信じて通り過ぎる。右手に懐かしい作りの「散髪屋」がある。そう言えば徳島では理髪店とは言わず「さんぱっちゃ」と言っていた。東京でも「散髪屋」というのだろうか? 右手に灯りが見えてきて、その隣に丸く張り出した暖簾。暖簾に「大木」とあり、洋食屋さんであった。夕食はここでいいかなと思いながら、これまた通り過ぎる。冬至を過ぎてから、東京の夜の迫りは急なのである。
道が左にゆるくカーブする。ほどなく町名が「千束」となる。そして旧町名が新吉原、江戸町、角町、京町。誰が吉原の町名を嫌ってしまったのだろう。だいたい今でもこのあたりには風俗関連が密集している。そして道を渡ると東浅草一丁目、二丁目。急日本堤、山谷である。山谷の歴史も調べないと昭和という時代はわからない。
吉原大門あたりに来たが何があるでもない。道路の向こうに「土手の伊勢屋」が見えてくる。隣が「桜肉鍋中江」。天ぷらでも食べたいなと思ったら今日はお休み。
そのまま「いろは会商店街」に入る。入った途端に左手の酒屋前に老人たちがワンカップや缶ビールを手に集団で立っている。別に会話を交わしている風でもなく、少し寂しい。右手には豆腐店、肉屋。商店街にシャッターを下ろした店が目に付く。そしてときどき座り込んで酒を飲む人たち。「いろは会商店街」はこぎれいな、アーケードの通り、そこをゆらゆら歩く老人がひとり、ふたり。夕闇は休息に下りてくる。行き着いてまた引き返してくる。
このまま三ノ輪橋まで北上するべきか悩んだ末に、「大木洋食店」に惹かれるところ大、ということで浅草に引き返す。「いろは会商店街」で見た光景から気持ちが落ち込んで、寂しくて仕方がない。あたりはすっかり夜となってしまったのだ。