地下鉄銀座線から吾妻橋を渡りを西に歩く。橋を渡ってすぐのところに佃煮屋が三軒あるものの、この通り自体はあまり好きではない。だいたいこの佃煮屋の「海老屋総本舗」というのがいかにも偉そうで嫌だ。結局ただ単に浅草から隅田川を渡るのが好きなだけで、いつもはこのまま両国駅まで回り帰宅する。まったくもっての無駄歩きコースなのだ。それを吾妻橋、業平まで歩いて十間川を渡り、曳舟駅まで歩いてみようと思ったのである。当然、面白そうな路地を見つけるとどんどん深入りしてしまうので目的地の曳舟が、錦糸町になったり、亀戸になったり、いつもながらに先の読めぬ無駄歩きとなるはずだ。
ちょうど業平まで来たときに右手に「キムラヤ」という大きなパン屋を見つける。これはアンパンで有名な銀座「木村屋」と関係があるのだろうか。買う気もないのに道を渡る。ここで古色をおびた足袋屋を見つけたのは大収穫。そのまままた東に歩いて、また路地に迷い込んで見つけたのが「ときわ食堂」なのである。
最近気になっているのが下町でときどき見かける中華の「生駒軒」、そして「ときわ」という食堂。『下町酒場巡礼 もう一杯』に「東京ときわ会」というのがあって、「すべての始まりは山谷にあった『ときわ食堂』。ここから暖簾分けが始まった」とある。
小さな店である。真っ白な暖簾のかかる入り口はちょうど両手を広げたくらい。間口一間(180センチ)ほど、下町にある店舗の基準が二間だとしたらその半分しかない。その真横が駐車場なのだ。駐車場の方に回ると思ったよりは奥行きがあり細長い。午後5時前、やっているだろうか? と思って引き戸を開けると左手に3つほど並んでいる机で新聞を読んでいるオヤジさん。
「やってますか」
「やってますよ。どうぞどうぞ」
入ると合板の壁が迫まって来るように思える。それほど細長いのだ。その壁の品書きは少ないながらも洋食屋のものを中心に中華の炒め物もある。とにかく昼食抜きで腹が減っているのでご飯、ご飯と考えた末に「オムライス」に決める。最近、「ヤキメシ」というのに惹かれているのだが、なかなか注文するに踏ん切りがつかない。
出てきたのは昔ながらのケチャップのかかった「オムライス」。脇には福神漬けというのもいい。これが素朴だがとてもうまい。ボクはオムライスは出来るだけ卵焼きを香ばしく焼いて欲しいと思っているのだが、まさに願ってもない焼き加減。
壁に大きな鏡があり、そこに「雷門 榎本逸郎」、「雷門 ときわ」、「花川戸 味のときわ」という文字がある。
オヤジさんが奥の席に座ったので
「あの、下町に来るとよくこの『ときわ』という店を見ますね」
「ああ、あれね今じゃ少なくなったけど40軒くらいかな」
「どこかからの暖簾分けですか」
「浅草のね今ある『ときわ』の前にね『ときわ本店』があったの。そこから暖簾分けしたの。今はつぶれてなくなったね。『ときわ』というのはこの近所にも何軒かあるんだけど、オレがいちばん古いかな。戦後だけど昭和20年代かな入ったのは」
お年を聞くと70歳だという。
かたわらで女将さんが、
「そうね私たち結婚したのが昭和33年だから、絶対に20年代だよ。だからここを始めて30年くらいかな」
浅草の『ときわ』というのは洋食屋なんですか、と聞くと。
「洋食も中華も和食もあってね。寿司だってあるんだよ。昔はなんでもあり」
語るオヤジさんも女将さんもいかにも楽しそうだ。
しかし山谷にあったという「ときわ」、そして浅草の「ときわ」はどのような関係にあるのだろう。この食堂という形態の店は大正13年(1924)創業の神田須田町に始まるという。多様な客の注文に応えるべく中華も洋食も和食もすべて網羅していた。これが昭和になって、この食堂というのがあちらこちらに出来たのだろう。思い返すと四国徳島にも同様のものがあった。戦後には全国に食堂という形態の店が広がっていたのだ。
ときわ 東京都墨田区業平2丁目14-2