B級グルメ・B級食品: 2006年8月アーカイブ

 子供の頃、初めてインスタントラーメンを食べたのはやはり日清のチキンラーメンであって、次ぐのがエースコックのワンタン麺、そして明星食品の「チャルメラ」かな。これらは昭和30年代の終わりから昭和40年代にかけての出来事であった。面白いのは総てテレビコマーシャルで鮮明に覚えていることだ。すなわち、この頃からお菓子でも、このインスタントラーメンでも、カレーでも全国的に出回るもの総てがテレビコマーシャルと同時に発売、地方にも出回ったのだ。でもまあ四国の山奥に暮らしているとこの箱の中の世界はなんとまあ華やかで別世界であったことか。

 そんなときあか抜けないパッケージで登場したのが徳島製粉の「金鶴ラーメン」である。そしてこの「金鶴ラーメン」というのが「金ちゃんラーメン」と名を変えたのと同時に徳島のローカル局(四国放送)に唐突にコント55号が登場してきてきた。覚えているのはこれが「白黒」であったということ。我が家にカラーテレビが入ったのが中学の頃だが、万博はカラーで見ている。そして「金」がつく製品なので萩本欽一ひとりがコマーシャルに出るように変わったと記憶するが間違っているかも知れない。

 コント55号の全盛期というのは1960年代終わりから数年ではないだろうか? 徳島県人としては地元徳島製粉の「金鶴ラーメン」のコマーシャルにふたりが出てきたのにはかなり驚いた。どういった経緯で徳島という非常にローカルな地にあるメーカーのコマーシャルに当時人気絶頂のふたりが登場してきたのだろう。いつのころだろう、地元徳島県美馬郡貞光町の食料品店でも徳島製粉の「金鶴ラーメン」があって、そしていつの間にか「金ちゃんラーメン」と名を変えたものが大手のものと同等に並ぶようになったと思う。と言うことは初めて徳島製粉のインスタントラーメンを見たのは40年も前のことだろうか?

 初めて食べた時点では間違いなく「金鶴ラーメン」という名であった。他の大手のものより格安だった。これがどうしようもなくまずかった記憶がある。学校などでもそのまずさが話題になってなっていた。でもこれは他のメーカーが「全国放送」(四国放送じゃないということ)でコマーシャルを流していたのに対しての地元卑下の意識であったかも知れない。

 そして日清が1971年に発売したのがカップヌードルである。当初、これは大阪でしか手に入らなかったはずだ。それがテレビの人気番組に「ヤングおー! おー!」というのがあって繰り返し繰り返しカップヌードルという未知の食品を宣伝する。でもだれも食べたことがない。兄などは「ヤングおー! おー!」のカップヌードルプレゼントに何度かチャレンジしていたのだが、当たらなかった。

 そんなカップヌードルが珍しくなくなったときに徳島製粉からもカップ麺が出た。それが「金ちゃんヌードル」なのだ。実をいうと今回なぜか静岡県沼津市の「ユーストア」というスーパーで見つけたのだが、それで久しぶりに食べたのだが、たぶんこれが2度目くらいだと思う。なぜか20代、30代とインスタントを嫌悪していた時期があって実家からときどき送られてくるインスタント麺すら食べないでいたのだ。これは人生に置いて大失敗だったかな。

 さて、その「金ちゃんヌードル」の味わいだが思ったよりうまい。比較的あっさりしているのは徳島の風土のなせる技。京都の「はんなり」というが徳島も意外に「はんなりしとるんじゃ」。まあ感激するほどではないが、嫌みのない食べ飽きないものとなっている。しかし「金鶴ラーメン」また食べてみたいな。

●今回、徳島製粉の「金ちゃんヌードル」を購入したのは静岡県沼津市の「ユーストア」という大型スーパーである。どうして静岡に徳島ローカルな「金ちゃんヌードル」があるのだろう? 不思議だ。このカップ麺を買ったのが家人であり、残念ながら「金ちゃんラーメン」を売っていたのかどうかわからない。次回は必ず調べてみるつもり
●これは止む終えず、「お魚三昧日記」から移動したものです。コメントをいただいた方には申し訳ありません。

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徳島製粉
http://www.kinchan.co.jp/

 学生時代にもあまりカップ麺を食べなかったためにこの「ペヤング焼きそば」とも縁がなかった。それが市場の商社でカップ麺の箱を見ていたら疲れたオヤジ(42歳だという。この歳でなんでこんなにボロボロなんだこの野郎)が
「オレの若い頃はこればっか食ってたんだ」
 と勝手に独り言をもらすのである。ちなみにボクはこのカップの焼きそばが大嫌いだ。昔、鹿島灘に釣りに行き沖合で真横の老人と仲良くなった。その方がデカイポットをバッグから取りだして作ってくれたのがこれなのだ。作り方まで丁寧に教わってお湯を捨ててソースを麺に絡める。これがうまくもなんともない。どうせならカップヌードルの方がよかったな、なんて思ったものだ。
 と、この「ペヤング」の箱を見ていたら「なぜこんな不思議な名前なんだろう。ペヤングとは会社名なのだろうか」なんて疑問が湧いてきた。それで1箱(これが市場では1000円前後)買って駐車場に向かっているともうひとり話しかけてきた。この人、八王子で小さなスーパーを経営している。
「これ自宅で食べるの」
「そうだよ、でも1年くらいかかるだろうけどね」
「これが出たときに、うちの息子が大学受験でさよく食べてたよね。それでねオレも食べてみたらうまいよな。うちの母ちゃんも好きでさ」
「それ何年くらい前」
「そうだな万博よりは後だから、内の息子が今年45だから27年くらい前かな」
「そうなんだ。この会社の名前が面白くて買っただけなんだよね。オレはこれほとんど食べたことがない」
「ペヤングね。これはアベック(古い)のことペアっていうだろ。それから来ているの。うちでもずーっと扱ってるけどコンスタントに売れるのよ」
 自宅で改めて食べてみた。これがやっぱりうまくない。でも太郎は「うまいよ」と言って食べている。
 自宅で改めて食べてみた。これがやっぱりうまくない。でも太郎は「うまいよ」と言って食べている。
 それなりに「ペヤング」というのも調べてみると1975年発売の世界初(よその国にソース焼きそばなんてないよな)のカップの焼きそばである、そしてブランド名はやはり「ペアヤング」の略であること。群馬の「まるか食品」のというのが作っている。なんてことがわかった。そして食べてみて、やはり「焼きそば」は焼くからうまいのだ、と改めて思った次第。

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まるか食品 群馬県伊勢崎市戸谷塚49-1

 名古屋には不思議な食い物が多いというが、私的には「そうかな」と疑問に思う。天むすにしてもきしめんにしてもうまいもんがてんこ盛り、味の街とでも言えないだろうか?
 それでも「ヨコイのソース」を買ってくるたびに、やはり名古屋はすげーだが! と思うのだ。実を言うとヨコイに一度だけ入ったことがある。ボクの記憶が正しければ「スパゲッティハウス」とあるがご飯もあったはず。30年近い昔。そのときに注文したのは忘れてしまっていて思い出せないのであるからこの「ミラカン」と呼ばれる食い物ではないと思う。これが今更ながらに後悔しきり。はやく食べていたら、もっと名古屋の奥深くに入っていけたかも?
 さて、あんかけスパゲッティというとどんな味わいを想像するだろうか? 見た目は茹でて炒めたスパゲッティとベーコンや野菜にトロリとしたソースがかかっている。このソース、私的には甘酸っぱい中華のような味わいだと思いこんでいた。それが食べてみると大違い。味わいの中心にあるのはトマトかも知れないが、その全体に和風の出しの味わいがあるのだ。そしてピリリと辛い。これが一度食べたときにはアレっと思うもののうまいとは感じない。甘酸っぱいソースだと思ったのにがっかりした。それが、なぜだろうな、もう一度食べたくなるのだ。ちなみに家庭で「ミラカン(スパゲッティ)」を作るとき出来るだけ太目のスパゲッティを用意するといい。細いとうまくない。
 スパゲッティハウス ヨコイで食べていないので、店とレトルトのソースが同じなのかわからないが、我が家では常備してもいい味わいだ。

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愛知県津島市マックス津島店で購入。250グラムレトルト2パック4人前680円
スパゲッティハウス ヨコイ
http://www.ganet.gr.jp/shop_frame.asp?shop_id=001685
日本製麻株式会社
http://www.mall.ne.jp/shop/yokoi.html
●ぼうずコンニャクの「お魚三昧日記」があまりに混雑してきたので水産物以外をこちらに移している

 この永谷園の「お吸いもの」だが発売当初は「松茸の味お吸いもの」であったことを今回初めて知る。昭和39年というからボクが8歳のとき、この頃、それまで加工食品で全国的なものは少なく、またテレビという媒体もこの頃から主役化している。そんなときに発売と同時に我が四国の片田舎にも入ってきている。確か、旧徳島県美馬郡貞光町で初めてのスーパー「マルサン」が出来たのもこの頃のこと。なぜだか青空に煙火が上がり、その落ちてくるパラシュートを子供ながらに街中走り回って拾おうとしたのを覚えている。あのパラシュート誰が拾ったんでしょうね?

「ありゃな、松茸と書いてあるけんど、ウソじゃ」
 何がウソかというと、ボクの同級生でいつも辛辣なことを言うヤツが
「中には松茸がはいっとらんのでよ」
 こんなことを宣うのだ。このとき少々驚きを感じたはずだ。確かにテレビなどで松茸は高いものだと知っていた。でも秋になると松茸はどこからともなく来て、父などが食べていたけれど、それをうまいなんて思ったこともない。むしろその頃、父の実家からシイタケが生で来て、その方が豚のまめ(腎臓)などとともに焼いてうまいものだと子供心に思っていたのだ。

 その永谷園の「お吸いもの」だがもっと驚いたのは高校生になって修学旅行で東京の旅館だか、旅行の移動中のお昼ご飯かに一袋置かれていたことである。これをお椀に入れて、お湯を注いでくれる。そのとき初めてじっくり味わったはずだ。
 それが全然うまくもなんともない。だいたい徳島でのお吸いものというとゆで卵がごろんと一個入っている。それだからこそうまいのであって、この庄内麩だろうかそんながらんとしたものはつまらなかった。

「面白いよね。これはね、今でもコンスタントに売れているんだよね。これが切れると文句がでる」
 八王子のこんな加工食品を売る、商社ではそんなことを言うのだ。

 余談だが子供心に松茸は嫌いであった。これが好きになったのは大人になってから。思い出したのは今はなき兄と山間部に雑貨品を配達に行ったとき。貞光の町中から端山に向かい山に入り、目もくらむような山の細道。軽四輪で行っても行ってもその家が見つからない。やっと畑の脇に表札があって、そこから荷物を背負って届けるのだが、そこからも20分くらい、しかも2往復もしたのだ。帰りにお土産をもらってそれが肥料袋いっぱいの松茸。
 これほどの松茸、為すすべもなくほとんどを腐らせて捨ててしまったのだ。もったいないのは今の感覚であり、若い身空ではそんなものどうでも良かったのだ。

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永谷園
http://www.nagatanien.co.jp/

 徳島に金鶴ラーメンありと市場で話していたら、そこに福岡県人(この人福岡市ではないという)が来て
「マルタイラーメンというの知らないだろう? チキンラーメンよりも古いんだぞ。子供の頃のお昼ご飯はこれが多かった」
 と割り込んでくる。いったいいつ頃の話だろうと聞けば、
「さあ、いったいいつの頃だっけ。子供の頃だから万博のあったくらい」
 そうしたら後日、その話はもっと古い時代であることが判明した。何しろこのオヤジ60歳を超えている。まったくオヤジが年齢隠してどうするの。
 我が家にある資料を見ると確かにマルタイラーメンが発売されたのは1959年のことだとある。これは早い、間違いなく日本でもっとも早い時期に発売されたインスタントラーメンではないか? ただしチキンラーメンに遅れること1年ではあったが。
 さて、チキンラーメンはあまり好きじゃない、もしくは嫌いだというのを書いたはずだが、どうして嫌いかというと麺を揚げているからだ。この揚げた麺を湯でもどした重さに耐えられない。それからするとマルタイラーメンはただの乾麺である。見た目は太目のそーめん、冷や麦と変わらない。たぶん鹹水をほとんど使っていないのだろう。マルタイではこれを「棒ラーメン」と呼んでいる。それを茹でると博多ラーメンに使われているストレート麺に近い味わい風味となる。そこにしょうゆ味とも、なんともつかないスープと調味液を加えて出来上がる。
 その間、たったの3分弱。
 味わいは、ややスープがくどいが腹減り状態ならむしろこれも歓迎か? また麺は2分強茹でてまだ腰があり、なかなかこれもうまいではないか。ここに紅ショウガ、ゴマなどを加えると博多ラーメン然とする。
 このマルタイラーメンは家人が自宅そばの西友で購入したもの。税込み130円也でラーメン2杯は安い。また「これなら、どこにでも売っているわよ」と言われて驚いたなもー。

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味のマルタイ
http://www.marutai.co.jp/

 丸美屋の「のりたま」というと「エイトマン」だろう。克美しげるの歌(作詞者が前田武彦というのが意外だ)とともに硬直して走る画面は今でも思い出す。このエイトマンの放映開始が1963年であるからちょうど小学校に入ったばかりの頃。画面はまだ白黒、夕食時の7時から始まったので丸美屋の「のりたま」のCMは夕ご飯を食べながら見ていたのだ。また「のりたま」と言うとエイトマンのシールである。透明なシートにエイトマンの絵。これを下敷きなどに当てて鉛筆などでこすって貼り付けるのだけれど、これがなかなかうまくいかなかった。このところどこと絵柄がかけたシール、これを見て兄が「おまえがやったらいかんきんな」とシールをなかなかくれなかったのも思い出だな。
 テレビコマーシャルで覚えているのが落語家(当時は日活の俳優というイメージが強かったという)の桂小金治が横縞のシャツに水兵の帽子、船の舵を回しながら「面舵いっぱい、のりたまで3ばい」というコマーシャル。また「すきやき」というのが発売されたときの牛のアニメ(動いていたかな)のコマーシャルも思い浮かぶ。しかも感慨深いのは実際にこのコマーシャルを見ながら「のりたま」を振りかけていたこと。若くして死んでしまった兄が右に父が左に正面が姉で、また84で死んでしまった明治生まれの祖母がいた。机は丸いやや大きめのもの。テレビは当然白黒で居間に向けたり、食事をする部屋に向けたり。姉が「すきやき」の方がいいと言ってから一時期「のりたま」が消えた時期もあったと記憶する。とにかく懐かしくて困ってしまうのが「のりたま」である。
 まあ「のりたま」を見ると味よりもエイトマンなのだけれど、香ばしい海苔と乾燥した卵の味わいが子供心にも好きだったのだ。と、昔のことばかり書いてしまったが、今現在も我が家では「のりたま」を食べているのだ。しかもいちばん末っ子の姫はこれを食べるためにカレーのときでも最後に別のお茶碗を出してきて軽く一膳食べてしまう。まあ子供の好き嫌いには緩やかな波があり、いま「のりたま」の波は末娘が高いと言うだけだが。
 また、埼玉県日高市の国道407を通っているとき「のりたま」の大きなカンバンを見る。ひょっとしたら「のりたま」は埼玉で作っているんだろうか?

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パッケージが大きく変わってしまったのが残念!
丸美屋
http://www.marumiya.co.jp/index.html

 子供の頃から食べていたB級食品を思い出していて目の前にあったのが「きゅうりのキューちゃん」である。今回、改めてみたら「キューちゃん」なのに驚いた。ずーっと「Qちゃん」だと思っていたのだ。
 これを初めて食べたのは、間違いなく小学生の頃であると記憶する。なぜならどこで買っていたかを覚えているからだ。それは貞光町内を乳母車でパン、惣菜やアサリ、干物に豆腐を売り歩いていたおばさんがいた。「きたぐちさん」と言ったのだけど(漢字はわからない)、毎朝我が家の店の前に乳母車を止める。商売をしていたので店を開ける前に判で押したように売りに来る「きたぐちさん」のような存在はありがたかったに違いない。このおばさんは中学になったらなぜだか来なくなったのだ。これは田舎町とはいえ、「木村屋」というパン屋さんが出来たり、小さなものであったがスーパーマーケットが開業したり。なかなか乳母車を押しての行商が立ちゆかなくなったのだと思われる。
 このおばさんからボクがどうしても買ってもらっていたのが「きゅうりのキューちゃん」なのだ。なぜ、このキュウリの古漬けが好きになったのか、今ではわかる気がする。それは自家製のたくわん漬けや漬物が季節によっては漬けすぎであったり、また苦みを持ったりするなか、醤油味もほどよい漬物が子供心にもうまかったのだろう。また商家なので朝ご飯はパンで済ませたり、ご飯のときも塩鯖やフィッシュカツなど加工食品や簡単なおかずだけであったと記憶する。姉や兄にもお好みのものがあって「きたぐちさん」から買っていたように記憶するがどんなものであったか思い出せない。
 またなぜか「きゅうりのキューちゃん」で坂本九が浮かんでくると思ったら、1963年にはテレビコマーシャルをしていたのだ。小学生の頃から、今現在も食べ続けているものは我が家ではほかにない。これが1963年からだとしたら40年を超える愛用品である。ただし最近、主にこれを食べているのは太郎であって、これをポリポリご飯を食べているのを見るとなんだか懐かしくなる。

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東海漬物
http://www.kyuchan.co.jp/

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